collector-1

文字数 2,233文字

 顎先から耳下へ、下顎骨に沿ってメスを浅く走らせる。下顎角まで行き着くと、下顎枝から耳朶付近にかけてやや深めにメスを入れ、顔面の筋肉と表皮を剥離していく。
 ハイエナと呼ばれる解体屋が単独で行う仕事の第一段階は、顔の皮を剥がして眼球を摘出し、角膜を温存するため、薬液入りの瓶に詰めるところから始まる。
 荒事や私闘を好む破落戸連中が大半を占めるハウンドと違って、ハイエナのなり手が極端に少なく、裏の仕事に於いて目立ちにくいのは、その仕事の特異性にある。生きた人間を拘束した上で、麻酔なしに司法解剖をするようなものだと説明されたとき、なるほどと腑に落ちたことを覚えている。ハイエナと呼ばれる彼らには独特のこだわりや美意識があり、暴力で人を殺すだけのハウンドとは明らかに一線を画していた。そして、如何なハウンドより残忍だ。
 顔立ちはこれといった特徴がないものの、雰囲気だけなら往年の海外アクション俳優のような渋みと色気を持つ男もまた、ハウンドより猟奇的な人間が集うハイエナの一人だった。その仕事は迅速で丁寧なプロ中のプロで、全盛期にはハイエナ単独の依頼を独占していたのだという。
 ハウンド単独の依頼の中から、殺害の痕跡を残さないために処理が必要な遺体を引き取り、解体の手順や作法を学ぶのが、駆け出しのハイエナの義務のようなものだった。
 シギがそれを始めたのは十三の秋からだったが、元から読書に親しみがあって医学書なども読んでいたためか、ハイエナとしての分解の腕はすぐに上達し、約一年後には現場で生身の人間を捌けるかどうかというところまで成長していた。そんな彼に解体を指導していたのが、例の優秀なハイエナだ。
 彼は通名を薬叉と言った。
 これといった特徴のない凡庸な顔立ちと、年々後退していく生え際は、何処にでもいる冴えない中年男だ。物腰は低くて穏やかで、ともすると、女に梲が上がらない情けない奴だと陰口を叩かれかねない印象を与える。実際、ハウンドの荒くれ者の中には、彼を悪く言う人間が多かった。が、そういう声の大きな奴らに限って大した仕事をしないというのが、十四歳のシギの感想だ。
 ハイエナは仕事の特性上、本来なら二人一組を最低の単位として活動する。しかし、薬叉はソロで獲物をバラす類稀なハイエナで、彼を指名した依頼料は億を下らないと言われる。摘出した角膜や臓器を密売ブローカーに流し、そこから七割以上の利益を得たとしても、依頼者は赤字だろう。それでも、彼の腕を信頼した依頼はあるのだから、仕事というのはそういうものだと、薬叉の背中は無言で語る。
 動くはずもない遺体を一体、完全に解体し終える頃には、シギの小さな背中は汗で濡れていた。何のことはない単純作業ながら、集中力と体力の消耗は大きい。はぁ、と大きく息をつく。ハウンドのときの遺体の切断より重労働だ。
「……及第点、ですね」
 少年の動きをじっと見守っていた薬叉が言った。
 顔の皮を剥がして眼球を摘出し、薬液入りの専用の瓶に入れたあとは、喉から縦一文字に下腹部まで牛刀で切開して、胸郭から腹腔を露わにする。長くて重いだけの消化器官を手掴みで取り出したあと、肝臓、脾臓、膵臓、腎臓など、臓器移植で需要の高い臓器を中心に摘出して専用のバッグで保冷してから、肋骨を鑿と金槌で割って肺と心臓を摘出する。この全工程をこなすのに、最低でも二時間は掛かる。動かぬ遺体でこうなのだから、生きた人間であれば更に時間も体力も使うだろう。
 流れる汗を拭って、これは自分に向かないかも知れないとシギは毎回、思うのだ。
 幼少期の生育環境の影響で、つい二年ほど前まで満足に飲食も出来なかったせいか、身体は未だに細いし小柄だ。今はハウンドとハイエナの訓練を並行して受けているから人一倍食べるけれど、体力がいきなりつくわけではない。身体も頭も限界まで酷使して、眠るというより気絶するのが日常になっている。
 息を荒らげる少年の傍らに立ち、顔筋を剥き出しにして内臓を取り出され、空っぽになった遺骸を、薬叉はいつも、店頭に並ぶ商品を吟味する目で見下ろす。色彩、鮮度、形状、価格。それらを厳しく評価する消費者の眼差しをして、
「肋骨はもう少し短く、気を抜くと肺が損傷します」
 至らぬ点を淡々と告げる。
 傭兵上がりのハウンドの師にもいろいろと世話になっているけれど、あれは義に厚い男なので、あらゆることに冷めたシギには少々、暑苦しい。対して、ハイエナの師である薬叉は常に他者と一定の距離を取り、他人のことも自らのことも語らないから、居心地がいい。
 この男はオオワシと違って、少年の悲惨な生い立ちを漏れ聞いたところで表情など変えず、そうですか、だからどうしたと言うんですとでも答えそうだ。そういうところが気に入っている。
 オオワシはやけに感情的で、感傷的に物事を受け止めるけれど、シギにとっては自分がどんな目に遭ってきたとか、ましてや記憶のない過去のことなんて些末なことだった。幼くて抵抗もできない身体を組み伏せられ、見知らぬ男どもにマワされたところで痛くも痒くもない。腹の中をまさぐられるような不快感に堪えきれず殺してしまったものの、ただそれだけだ。
 薬叉からの指摘を無言で聞きながら、シギは亡骸を見下ろす。何かの恨みを買って殺された男は今や、眼球を失い、臓器を取り出され、脳と肉の器しか残っていない。人間の本質なんてそんなものだ。脳に生かされる精密な部品でしかない。
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