Stray.-2

文字数 2,220文字

 そんなことで妬いたのか、とシギが困ったように笑った。
 目が覚めた。
 そんなことじゃない、と、夢にまで出てきたシギに反発してみるけれど、現実の彼は朝早くから仕事に出てしまったようで、部屋には居なかった。
 昨夜のことを怒っているだろうか。
 ふと、胸を掠めた不安に、フユトの足は竦む。真昼間の人混みの往来にも関わらず。
 何であんな顔するんだよ、あんな女どもが傷つこうとどうだっていいじゃないか、恋人なんて言わなくてもいいけれど連れなんて言葉ではぐらかされたくもない、万人が恐れ戦く表情で睨みつけてやれば良かっただけじゃないか。
 昨夜から心臓が痛い。キリキリと絞られて、息が出来なくなりそうだ。もしかすると、死ぬかも知れない。
 昼以降のスケジュールを全てなかったことにして、フユトはシギの部屋に戻ってきた。そこはやはりしんとして、慣れ親しんだ気配がない。
 また、ぎゅうっと心臓が痛む。咄嗟に左胸を押さえたフユトは閉めた扉に背を凭れて、痛みが過ぎるまで立ち尽くしていた。
 着の身着のまま、ベッドに俯せてどれだけの時間が経っただろう。身体とシーツが一体化しそうな錯覚をしていると、足音を殺した気配がドアを開ける音がした。通路に明かりが灯ったのは、シギがカードキーを入り口横の挿入口に差し込んだためだろう。それをぼんやりと眺めながら、フユトは声を上げることも、身動きすることも出来なかった。胸が痛くて苦しくて、今に死んでしまうかも知れない心地だった。
「……居たのか」
 寝室前を横切ろうとしたシギが、力なく横たわるフユトに気づいた。気配には気づいていただろうから、驚いた様子は微塵もない。
「いつまでそうしてる」
 具合が悪そうなことには一言も触れず、不貞腐れ続けていることを咎められる気色に、フユトは無言を貫いた。また、心臓が痛い。
 枕に顔を埋めて隠した。きっとシギは溜息をついて、持ち帰った仕事やらルーティンの雑務に取り掛かるだろう。そう思うと更に胸が痛くなる。死んでしまう。
「フユト、」
 名前を呼ぶ優しい声が聞こえた。振り向かなかった。
「……全く……」
 嗚呼、苛立った声がする。シギが呆れを通り越し、遂に怒ってしまったのだ。昨夜のあれは何だったんだ、俺は気に入らないと喚き立てれば良かっただろうか。俺がいるのにナンパされるなんてと嫉妬していれば良かっただろうか。こんなに胸が痛いのに、苦しいのに、死にそうなのに、シギには何一つ伝わってくれない。
 シギの気配が奥のリビングに消えてからしばらくして、フユトはのろのろと起き上がる。心臓の疼痛がやまなくて、これはもう駄目かも知れないと、本気で思ったからだ。
「……シギ、」
 リビングの入り口から恋人を呼ぶ。弱りきった声では小さすぎたのか、シギは執務机で電子端末を見つめたままだ。
 痛い。痛すぎて喘ぎそうになる。ぎゅっと、左胸を押さえた手を握る。
「シギ、」
「具合でも悪いのか」
 先程より少しだけ声を張ると、気配には気づいていただろうシギが端末から目を離さずに聞く。そこはしっかり振り向いて、どうしたんだ、大丈夫かと聞いて欲しかったけれど、もう我儘は言えない。
 無言で頷いたまま、俯く。立っているのも、息をするのもつらい。
「どうした」
 フユトの弱りきった様子に、さすがのシギも少し戸惑ったようだった。胸を押さえたまま動けないフユトを見て、訝しげに寄せられる眉がある。
「……胸、痛くて……」
 正直に答えると、椅子から立ち上がったシギが近づいてきて、フユトの顔を覗き込む。確かに顔色は悪いのだろう。何かを考えるように目が細められるから、フユトはシギの診断をおとなしく待つ。
「いつから」
「昨日の夜から……」
「どれくらい痛む」
「ずっとズキズキしてる……」
 頬を撫でる冷たい指に、フユトはシギを見る。
「昨日の夜のいつから痛む」
 何かを確信したシギの目を見て、
「……部屋に帰ってきてから……」
 正直に答えた。
「だから不機嫌だったのか」
 合点したようにシギが微笑んで、フユトは更に下を向く。
「何が気に入らなかった?」
 たったこれだけのやり取りで、シギはあっさり、フユトの疼痛の原因を特定してしまった。排泄する場所をマジマジと見られるより熱を帯びる羞恥に、フユトは顔を上げられない。
「……だって、お前、」
 きっと、耳も首も赤いと思いながら、
「ハッキリ断らなかったじゃん……」
 モソモソと響く小声で答えた。
 ふ、とシギが笑う。
「だから妬いて怒ったのか」
 問われて、こくりと頷く。シギの指が頬から耳に移る。
「あの辺りには取引先もある、無下にするわけにいかなかったんだ」
 でも、とフユトの唇が紡ぐ前に、
「いつも言ってるだろう、俺にはお前だけだ」
 優しい色をした瞳で覗き込まれながら言われて、その先の言葉は出口を失う。
 胸が痛い。痛くて痛くて張り裂けそうで、死にそうなほど苦しい。
「誤解させて悪かった」
 頭をそっと肩に抱き寄せられる。されるがままのフユトは静かに瞬いて、
「……俺が居ないことにされたのも、ムカついた」
 嫉妬と同じくらい大事な本音を口にした。
 恋らしい恋なんてしたことがない。男も女も望めば金で買えたし、そういう感情とは無縁なのだと思って生きてきた。鬱積した不安を昇華したくて実兄に執着したものの、けれどフユトは満たされないまま兄と生き別れ、今、シギの傍らにいる。実母を殺し、フユトを終わらぬ夜に突き落とした張本人の傍らに。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み