ナイトメアをあげる。-1

文字数 2,227文字

 二×××年、十二月二十四日。木曜日。
 その年のその日は都心でも雪が降るかという冷え込みに見舞われた。街ゆく人々はダウンやコートにマフラーといった完全防寒の出で立ちで、深夜になって降雪する前にと家路を急ぐ。
 彼も混雑する終電にギリギリ飛び乗って、手にした箱の中身が崩れていないか、そっと持ち手の窓から覗いた。
 今年で二歳になる愛娘の名前がプレートに書かれ、『おたんじょうびおめでとう』と平仮名で綴られている。娘が大好きなキャラクターと、娘をイメージした女の子のマジパン人形が生クリームの上に載っている。走った割に、丸いホールケーキには崩れた様子がなくて、彼はほっと息をついた。
 あどけない顔が綻ぶ様を想像しただけで、彼は世界で一番、幸せな父親になれた。
 本来であれば定時で上がり、ケーキ屋とおもちゃ屋に立ち寄って、午後八時には帰宅するつもりだった。しかし、年の瀬にもなると年内に終わらせなければならない仕事も多く、社内のトラブル対応などに追われてしまうと、結局、数時間の残業をせざるを得ない。
 どうにか注文していたケーキだけは受け取ったものの、そこから帰社して更に数時間、残業を片付けた。どうにか終電には間に合ったものの、娘の誕生日は終わってしまった。
 残業になりそうだと妻に連絡すると、彼女は年末だから仕方ないと苦笑しながら、パパが不在の誕生日は嫌だと拗ねる娘のことを報告し、ケーキは明日の楽しみにしておくね、と言って通話を切った。
 ウールのコートにマフラーでも寒さが沁みる深夜の道を、彼は急ぎ足で自宅に向かった。吐く息が白く、手足が悴む。住宅街の街路灯の灯る道から空を見上げると、星明かりも見えない真っ暗な夜空が広がっていた。
 果たして、狭くて小さいながらも戸建ての自宅には、玄関にも廊下にも明かりがついているのが遠目からでも見えた。時刻はそろそろ深夜二時を回る。こんな時間まで妻が起きているのかと、彼は少し不思議に思いながらドアノブに手をかけて、更に怪訝に眉を寄せた。玄関のドアには鍵がかかっていなかった。
 比較的に治安のいい住宅街とはいえ、日中は妻と幼い子どもだけになる。ましてや妻は二人目を妊娠していて、臨月に向けて大きなお腹を抱えているから、唯一の男手である自分が帰るまでは鍵をかけているのが常だ。
 そっとドアを開けて玄関から妻の名前を恐る恐る呼んだ。玄関から見える廊下にもリビングにも、明かりがついたままだ。さすがにおかしいと思った彼の鼓動は速くなる。妻の声も娘の声もしない、ひどく静かな自宅の空間が恐ろしくなって、彼は急いで靴を脱いで上がり込むと、リビングのドアを開けた。
 終電に駆け込んでも崩れなかったケーキが床に落ち、箱ごとひしゃげて潰れた。

 

Given

you

the

nightmares.



 それが約十年前のことだと、草臥れたスーツ姿の男が言った。
 三十代だという割に、彼の見た目は老け込んでいる。黒髪に混じる白いもののせいなのか、土気色をした顔色のせいか、深く刻まれた皺なのか。あと五歳か七歳上だと言われたほうがしっくり来る。
「リビングの床で娘が、リビングとダイニングの間で妻が、冷たくなっていました」
 訥々と語られる事件のことは、フユトも薄っすら聞き覚えがある。
 特に冷え込んだ年の瀬に、妊婦と子どもが殺害されて見つかった。子どものほうは惨たらしいほどの暴行を受けたらしく、顔が腫れ上がって身元の確認が出来ないほどだったそうだ。妊婦は腹部を滅多刺しにされた上で死後に性的暴行を受け、胎児も死亡した状態で見つかっている。
 被疑者の遺留品が多く残された杜撰な現場だったそうだから、ハウンドのようなプロの仕事ではない。
 半年も経たないうちに逮捕されたのは、当時、未成年の少年だった。学校にはあまり通わず、自宅に篭もりがちな少年で、被害者との接点はゼロ。後の供述で、たまたまスーパーで被害者を見かけ、性的に暴行しようと後をつけて自宅を特定した上で犯行に及んだことがわかっている。弁護士の常套手段で家庭環境と精神疾患の影響が訴えられ、精神鑑定で多少の影響ありとされた。逮捕後から一貫して反省の態度が見られるということも鑑みて求刑は減刑され、少年刑務所行きとなったはずだ。
 三人も殺しておいて、と男は心から憎たらしそうに言った。
「あいつはもうすぐ、娑婆に出てくるんです」
 だから殺して欲しいのだと、動機が明快な殺害依頼だった。
 少年刑務所における無期刑の仮出所は七年と言われる。量刑だと更に短い。手口の残忍さを考慮したか疑わしい減刑もそうだが、何らかの力が働いた可能性もある。この国は往々にして、そういうところだ。
 依頼者の男が去ってから、
「……どう思う?」
 フユトは椅子に深く凭れて、真後ろに位置する席へと声を投げた。
 ビジネス街にある、こぢんまりした個人経営のカフェだった。夕方近い時間だから、店内の人は疎らで、誰もが作業や読書に勤しんでいる。観葉植物の大きな鉢植えの陰でひそひそと交わされる話題に聞き耳を立てる誰かもいない。
「どうもこうもない」
 返ってきたのは、シギの淡々とした声だった。
 こういった怨嗟絡みの殺害依頼は年間を通して多いものの、それら全てを真面に受けているわけではない。暴力を好むハウンドにはハウンドなりの流儀がある。特に、着手金が百万を超えるような依頼なら尚更だ。引き受けるかどうかの精査が必要になる。
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