喵喵-2
文字数 2,691文字
相手が誰であろうと、中指を突き立てて挑発し、決して遜らないのがフユトなのだ。強気で生意気で、誰かの意のままにならない問題児。そう在らなければならないのに、こんなことで愚図っている場合ではないのに。
強がれない自分を呪いたくなる。
寂しいなんて思ってはならない。会いたいなんて思ってはならない。そんな感情が沸くのは弱いからだ。そんな弱さを認めたくない。
認めたら、どうなる?
「少し休んで行きますか?」
行き当たった考えに身震いしそうになっていると、アゲハがさり気なく聞いてきた。
「眠れるようなところはないけど、作業が終わるまでいてもらってもいいですよ」
フユトを知る彼なりの気遣いに、やんわりと首を振る。人の気配があっては、どうせ休めない。
「いい、帰る」
手付かずのグラスをそのままに、フユトはスツールを離れた。心配そうなアゲハの視線に見送られて店を出る。星明かりのない空を仰ぐ。
認めてしまったら、生きていけない気がする。
弱い者から淘汰されていく廃墟群で生き延びるためには、五感を研ぎ澄まし、常に周囲を警戒し、他人を拒絶しなければならなかった。自分のことさえ信じられない環境にいる間は何も思わなかったものの、離れてみると、随分と過酷なところでサバイブしたのだなと実感する。
弱ければ死ぬ。生態系の単純明快な摂理。だからフユトは強く在らなければならなかったし、強く在ろうとした。それも全て、生きるためだった。
夜陰の中に現われた鼠が走る足音さえ、フユトの耳は逃さなかった。砂埃が風に巻き上げられる気配さえ、フユトの眠りを阻害した。
夜気で冷えるコンクリートの壁に背中を預け、座ったままで目を閉じる。睡魔によって意識が深淵に攫われる刹那、遠く離れた場所の犬の遠吠えで目を覚ます。そんな夜を幾星霜も重ねて繋いだ命だ。強くない自分になんて、今更、なれるわけがない。
独り寝には広すぎる、キングサイズのベッドの中央で、柔らかい枕に頬をうずめて俯せる。この場所で成されたことの記憶を引っ張り出して、脳裏に走馬灯を描く。
シギを強く拒んだことがあった。泣きそうになりながら受け入れた日があった。抱き寄せる腕は優しく、口づける唇は滑らかだった。喧嘩もしたし仲直りもした。どんなことがあっても、シギはいつだって、フユトに巣食う恐怖ごと喰らい尽くしてくれたのだ。
ひたり。
鼓膜を打つ微かな足音に目を覚ます。一ヶ月ほど前から枕の下に仕込んでいるナイフに手を伸ばす。足音と呼吸のリズムを合わせつつ、ナイフの金属製の柄を握り締め、カウントする。敵を殺せる正確な間合いを測らなければ殺される。この命が終わる。
フユトのカウントが五になったとき、部屋のドアノブが回る、微かな軋りがした。オートロックのそこを突破するということは、だ。握ったナイフから手を離す。
「……あぁ、悪い、起こしたな」
フユトの覚醒を知っていたような口ぶりで、シギがゆるりと口角を上げた。フユトが寝室から出て迎えたのは、四ヶ月ぶりに戻ってきた支配者だった。
闇討ちを得意とするシギは、基本的に気配も足音もなく移動する癖がある。そんなシギの、本当に微かな足音さえ聞こえてしまうほど、フユトの神経は生き延びることに集中していて、だからこそ、綺麗に微笑むシギを闇の中に見つけた途端、フユトの中で張り詰めていた全てが瓦解し、崩落した。
「……どうした」
シギが近づいた瞬間に抱きつくと、耳に心地いい声が聞いてくる。聞かなくてもわかるだろうに、この男は意地が悪い。
「また戻らなきゃならない、悪いが──」
言い差したシギの肩を掴んで身体を離し、続くはずだった言葉は唇で塞いだ。
するり、後ろ頭に回される掌が温い。余裕なく伸ばした舌を絡め取られた上で吸われて、鼻から息と共に声が漏れる。
「ん、」
背中が壁にぶつかった。シギの手に庇われた後頭部は勢いのついた衝撃を免れる。貪るように、貪られるように、舌と舌を絡めて舐って吸った。流し込まれる唾液を飲み下す隙にシギの舌が離れ、下唇を啄まれて柔く吸われる。表皮を擽るように舐めた舌が遠ざかり、じきに耳下に触れ、首筋へと降りていく。
痙攣じみた震えが止まらない。フユトが仕掛けたキスを前戯の合図と看做し、慣れた手順で進めるシギを受け入れつつ、これが終わったら居なくなってしまうのかと思うと、急速に切なさに襲われる。
「や……ッ」
思わず拒絶の言葉を口にして、フユトは身体を強ばらせた。シギの機嫌を損ねたかも知れない、という危惧は、フユトの瞳の奥の色を伺うシギの視線を受けて、杞憂に終わる。
「……したくない」
人でなしが浮かべる配慮の気配に、フユトは拗ねた声で拒否を示す。
終わっても、終わらなくても、シギがまた出ていってしまうとわかっていて、足掻かずにはいられない。
「フユト、」
「したくない」
また行ってしまうのは嫌だ、ずっとここにいればいい、仕事なんて誰かに任せて傍にいて欲しい。言えない言葉の数々を、たった五文字に詰め込んで告げる。
さみしい。あいたい。弱くなってしまう自分も、弱さを刺激するシギも嫌いだ。全部、全部、大嫌いだ。
「フユト」
もう一度、シギが名を呼んだ。フユトの盾と鎧を粉々に砕き、脆弱を露出させる、大好きな呼び方で。
「わかったから泣くな」
ほら、シギが困ったように笑っている。ほんの少しだけ眉尻を下げて、けれど、かけがえのないものを見つめる温かな眼差しで。
「泣いてなんか、」
「独りにして悪かった」
突っぱねようとした声は潰える。フユトが欲しい言葉を的確に拾い上げたシギが、心地よい強さで頭を抱いてくれる。
もう、駄目だった。強くなんていられなかった。強くなければ生きていけないのに、シギはこんなにも、フユトを弱く脆く変えてしまう。大嫌いだ、と呪詛を吐きながら、溺れないよう支えてくれる腕に爪を立てた。それでも、好きだと言って欲しい。救いようのない莫迦だと嘲りながら、誰よりも何よりも愛しいと言って、抱き締めていて欲しい。崩れ落ちた残骸の欠片も残さず、愛して欲しい。
「……いくな」
掠れた声でフユトは言った。
「……何処にも行くな」
叶わぬ我儘だと知っていて、願わずにはいられなかった。
死にたくないと叫びたかった、助けて欲しいと叫びたかった、たくさんの夜の底に置き去られたくない。殺されないために必死だった、生き延びるために我武者羅だった、あんな場所には戻りたくない。
「──落ち着いたか?」
子どもをあやすように背中を規則的に叩きながら、シギが聞いた。肩に額を預けたまま、フユトはこくりと頷く。
強がれない自分を呪いたくなる。
寂しいなんて思ってはならない。会いたいなんて思ってはならない。そんな感情が沸くのは弱いからだ。そんな弱さを認めたくない。
認めたら、どうなる?
「少し休んで行きますか?」
行き当たった考えに身震いしそうになっていると、アゲハがさり気なく聞いてきた。
「眠れるようなところはないけど、作業が終わるまでいてもらってもいいですよ」
フユトを知る彼なりの気遣いに、やんわりと首を振る。人の気配があっては、どうせ休めない。
「いい、帰る」
手付かずのグラスをそのままに、フユトはスツールを離れた。心配そうなアゲハの視線に見送られて店を出る。星明かりのない空を仰ぐ。
認めてしまったら、生きていけない気がする。
弱い者から淘汰されていく廃墟群で生き延びるためには、五感を研ぎ澄まし、常に周囲を警戒し、他人を拒絶しなければならなかった。自分のことさえ信じられない環境にいる間は何も思わなかったものの、離れてみると、随分と過酷なところでサバイブしたのだなと実感する。
弱ければ死ぬ。生態系の単純明快な摂理。だからフユトは強く在らなければならなかったし、強く在ろうとした。それも全て、生きるためだった。
夜陰の中に現われた鼠が走る足音さえ、フユトの耳は逃さなかった。砂埃が風に巻き上げられる気配さえ、フユトの眠りを阻害した。
夜気で冷えるコンクリートの壁に背中を預け、座ったままで目を閉じる。睡魔によって意識が深淵に攫われる刹那、遠く離れた場所の犬の遠吠えで目を覚ます。そんな夜を幾星霜も重ねて繋いだ命だ。強くない自分になんて、今更、なれるわけがない。
独り寝には広すぎる、キングサイズのベッドの中央で、柔らかい枕に頬をうずめて俯せる。この場所で成されたことの記憶を引っ張り出して、脳裏に走馬灯を描く。
シギを強く拒んだことがあった。泣きそうになりながら受け入れた日があった。抱き寄せる腕は優しく、口づける唇は滑らかだった。喧嘩もしたし仲直りもした。どんなことがあっても、シギはいつだって、フユトに巣食う恐怖ごと喰らい尽くしてくれたのだ。
ひたり。
鼓膜を打つ微かな足音に目を覚ます。一ヶ月ほど前から枕の下に仕込んでいるナイフに手を伸ばす。足音と呼吸のリズムを合わせつつ、ナイフの金属製の柄を握り締め、カウントする。敵を殺せる正確な間合いを測らなければ殺される。この命が終わる。
フユトのカウントが五になったとき、部屋のドアノブが回る、微かな軋りがした。オートロックのそこを突破するということは、だ。握ったナイフから手を離す。
「……あぁ、悪い、起こしたな」
フユトの覚醒を知っていたような口ぶりで、シギがゆるりと口角を上げた。フユトが寝室から出て迎えたのは、四ヶ月ぶりに戻ってきた支配者だった。
闇討ちを得意とするシギは、基本的に気配も足音もなく移動する癖がある。そんなシギの、本当に微かな足音さえ聞こえてしまうほど、フユトの神経は生き延びることに集中していて、だからこそ、綺麗に微笑むシギを闇の中に見つけた途端、フユトの中で張り詰めていた全てが瓦解し、崩落した。
「……どうした」
シギが近づいた瞬間に抱きつくと、耳に心地いい声が聞いてくる。聞かなくてもわかるだろうに、この男は意地が悪い。
「また戻らなきゃならない、悪いが──」
言い差したシギの肩を掴んで身体を離し、続くはずだった言葉は唇で塞いだ。
するり、後ろ頭に回される掌が温い。余裕なく伸ばした舌を絡め取られた上で吸われて、鼻から息と共に声が漏れる。
「ん、」
背中が壁にぶつかった。シギの手に庇われた後頭部は勢いのついた衝撃を免れる。貪るように、貪られるように、舌と舌を絡めて舐って吸った。流し込まれる唾液を飲み下す隙にシギの舌が離れ、下唇を啄まれて柔く吸われる。表皮を擽るように舐めた舌が遠ざかり、じきに耳下に触れ、首筋へと降りていく。
痙攣じみた震えが止まらない。フユトが仕掛けたキスを前戯の合図と看做し、慣れた手順で進めるシギを受け入れつつ、これが終わったら居なくなってしまうのかと思うと、急速に切なさに襲われる。
「や……ッ」
思わず拒絶の言葉を口にして、フユトは身体を強ばらせた。シギの機嫌を損ねたかも知れない、という危惧は、フユトの瞳の奥の色を伺うシギの視線を受けて、杞憂に終わる。
「……したくない」
人でなしが浮かべる配慮の気配に、フユトは拗ねた声で拒否を示す。
終わっても、終わらなくても、シギがまた出ていってしまうとわかっていて、足掻かずにはいられない。
「フユト、」
「したくない」
また行ってしまうのは嫌だ、ずっとここにいればいい、仕事なんて誰かに任せて傍にいて欲しい。言えない言葉の数々を、たった五文字に詰め込んで告げる。
さみしい。あいたい。弱くなってしまう自分も、弱さを刺激するシギも嫌いだ。全部、全部、大嫌いだ。
「フユト」
もう一度、シギが名を呼んだ。フユトの盾と鎧を粉々に砕き、脆弱を露出させる、大好きな呼び方で。
「わかったから泣くな」
ほら、シギが困ったように笑っている。ほんの少しだけ眉尻を下げて、けれど、かけがえのないものを見つめる温かな眼差しで。
「泣いてなんか、」
「独りにして悪かった」
突っぱねようとした声は潰える。フユトが欲しい言葉を的確に拾い上げたシギが、心地よい強さで頭を抱いてくれる。
もう、駄目だった。強くなんていられなかった。強くなければ生きていけないのに、シギはこんなにも、フユトを弱く脆く変えてしまう。大嫌いだ、と呪詛を吐きながら、溺れないよう支えてくれる腕に爪を立てた。それでも、好きだと言って欲しい。救いようのない莫迦だと嘲りながら、誰よりも何よりも愛しいと言って、抱き締めていて欲しい。崩れ落ちた残骸の欠片も残さず、愛して欲しい。
「……いくな」
掠れた声でフユトは言った。
「……何処にも行くな」
叶わぬ我儘だと知っていて、願わずにはいられなかった。
死にたくないと叫びたかった、助けて欲しいと叫びたかった、たくさんの夜の底に置き去られたくない。殺されないために必死だった、生き延びるために我武者羅だった、あんな場所には戻りたくない。
「──落ち着いたか?」
子どもをあやすように背中を規則的に叩きながら、シギが聞いた。肩に額を預けたまま、フユトはこくりと頷く。
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