I missed U.-1

文字数 2,310文字

 彼は其処にいた。
 清潔な白いベッドの上で目を覚ますと、顔に刃傷痕のある快活な男が駆けつけて、お前は今日から俺の子だ、と宣った。
 彼が寝ている場所も、その男の正体も、興味はなかった。目が覚める前のことは何一つ覚えていないけれど、また、朝が来て昼になり夜が更ける、ただそれだけの世界が始まったのだと思った。

  I missed U.

 世界は三倍速の早送りのように流れていく。
 慌ただしい大人たちは時折、立ち尽くすだけの彼を見て怒鳴ったり、微笑んだり、心配したりと忙しない。大人たちが何を話しかけてきても、彼には言われている言葉など形を成さなかったし、意味を持たなかったし、水底からじっと水面を見つめているような感覚は消えなかった。
 彼はただ、過ぎていくのを待っていた。
 朝が来て昼になり夜が更ける、ただそれだけの毎日が、今日と地続きの明日が来るのを眺めていた。
 多くの大人が出入りするところが、彼の住処だった。規則正しく、忙しなく動き回る大人たちは──特にリネンやフロント担当の女性は──、彼の姿を通路に見つけると、何がしかを話しかけ、まだ小さな彼の手に、そっとキャンディやチョコレートを持たせてくれた。
 けれど、彼にはそれだけだ。
「──」
 働き回る大人たちと一緒に食卓へ付くと、彼らは決まって、彼に対して眉を寄せ、困ったような顔をして、何事かを話しかけてきた。
 目の前の食卓にどんな料理が載っても、食欲をそそる匂いがしても、彼にはそれだけだった。
 滾々と流れる大河を見ている。日の傾きで煌めきを変えるそれを眺めて、彼は自分の身体がいつか、抗いようのない濁流に飲み込まれてしまうのを待っていた。
 朝が来て昼になり夜が更ける。朝が来て昼になり夜が更ける。時たま意識を失って目を覚ますと、彼はまた、朝だったり昼だったり夜だったりする時間から、同じ流れを繰り返す。
 朝が来て昼になり夜が更ける。朝が来て昼になり夜が更ける。朝が来て昼になり夜が更ける。朝が来て昼になり夜が更ける──。
「食べたいものはないのか」
 ある時、清潔なベッドで横たわり、痩せた木の枝のような腕に針を刺された彼に、男が言った。刃傷痕のある強面を曇らせ、泣きそうな目で彼を見ながら、髪を撫でる。
 彼には男の言葉の一割も届かなかったし、アイボリーの天井を見上げたまま、瞬きすら最低限だったけれど、彼が何も言わなくとも、男は何かを察したようだった。
「まぁ、あんなところにいたんだからな、ゆっくり慣れてくれたらいい」
 言葉を言葉として認知し、理解できるようになってから、彼は『あんなところ』を教えてもらったことがある。垢と汚物に塗れた身体を床に流れた血痕に浸し、骨と皮だけの状態で虫の息だったところを、拾われたのだという。あと少し遅ければ死んでいたかも知れないと言われて、捨て置いてくれたら良かったのに、と人知れず思ったことは、誰にも言わなかったけれど。
 食べることも飲むことも、眠ることも、能動的にできなかった彼は、時に栄養剤を点滴されて命を繋ぎながら、朝が来て昼になり夜が更けるだけの三年を過ごした。その頃には言葉もわかるようになってはいたけれど、彼自らが意図して声を発することはなかったし、相変わらず、遠くを見るような目で日々を揺蕩っていることに変わりはなかった。
 自分の身体の感覚がわからず、乳幼児のように粗相を繰り返した三年前よりは人らしくなっていても、食べたり飲んだりはほとんどしないせいか、身長や体重は同世代の子どもと比べても華奢で、これで本当に生きていけるのかと、彼の知らないところで、周囲は心配していたようである。
「お前には行く行く、跡目を継いで欲しいと思っている」
 頬に大きな刃傷痕のある養父から打診されたのは、彼が十二になってすぐのことだった。いつものどこかぼんやりした顔で、どこに焦点を当てるでもない瞳で、彼は黙ったまま、養父の話を聞いている。
「お前の狂気は本物だ」
 養父が指すのは、つい先日、廃工場で輪姦された際に、相手の喉笛を噛み切ったことだろう。この身体は痛みをほとんど感じないから、されるがままにしたけれど、体内の奥深くで何かが爆ぜる感覚がしたあと、脳裏が白く染まって、自分が何をしたのかは覚えていない。
 何の反応も示さない彼に、
「だが、そのままでは駄目だ、シギ」
 養父は彼の新しい名前を、久しぶりに呼んだ。
「打って付けの人材がいる、明日、会ってくれないか」
 そして、彼は師と邂逅した。
 その男はグリズリーのように大きく、養父よりは小さな古傷を複数刻んだ顔は、戦場で数多の敵を屠ってきたとは思えないほど温和で、むしろ、人の血が流れるようなことは忌避しそうにさえ見えた。
 その時は単に聞き違えたのだけれど、今更、朴訥とした見た目の大男をオオハシと呼び直すのもつまらないから、シギはワシ座の神話にかけて、未だに彼をオオワシと呼んでいる。全能神ゼウスのようにはいかないものの、何も持ち得なかった子どもに感情と狂気と殺戮を教えてくれた、第二の父親のような存在への漠然とした万能感は消えないのだ。
 シギを殺戮者に育てるためだけに雇われた男は、自己主張をしない子どもの顔色や体調を注意深く観察した上で、突然に訓練を中断することがあった。そういうときは決まって、シギの寝室で一緒に本を読んだり、行きたいところなどないのに街中へ連れ出してくれたり、オオハシの車の助手席に拘禁されて連れ回されたりする。特に何も言わないし欲求もないのに、あれを飲めこれを食えと世話を焼くから、いつの間にか味覚が育ち、飢えや渇きといった感覚を持てるようになった。
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