リリィ。-3

文字数 2,272文字

 トーカとは、ターミナル駅から二駅ほど都心部へ出たところで待ち合わせた。トーカの素性をミコトに知らせていないため、彼女の庭と呼ぶべき高級歓楽街付近は意図して避けた。だいたい、そんなところに行ったら、ミコトよりも自分の身が危ない。プレイ用の革の首輪で繋がれて、往来を散歩させられでもしたら堪らない。文字通り、心から嫌だ、という意味で。
 ビジネス街にも近い場所だからか、待ち合わせとして指定されたカフェへ向かっていると、スーツを着たビジネスマンたちとすれ違う。彼らの多くは最低でも高等教育機関卒業の資格があり、富裕層から中産階級出身だ。仕事の大半は戦前からリモートが主流になったとはいえ、彼らは未だにハンズフリーで会話したり、手元の時計を気にしたりして、時間に追われるように歩いている。彼らはすれ違った男が裏社会で生きる人間であっても気にしない。彼らの関心は明日の為替と株価、会議や打ち合わせのスケジューリングにある。
 その筋の人間が集う場所なら、フユトは間違いなく、徒歩五分の間に、少なくとも三人に絡まれていたはずだ。高級歓楽街のあるエリア以外での待ち合わせを打診した際、良くも悪くも他人に関心を持たない人々が集う場所を指定するあたり、トーカの気遣いはシギのそれと同等で、人並み外れている。
 指定されたカフェのオープンテラスに一人の美女を見つけた。腰に届きそうな黒髪や顔立ちは間違いなくトーカなのに、ふんわりした白の襟シャツに厚手のカーディガンを羽織り、見事な脚線美を隠すロングスカートの出で立ちは、レザーアイテムを着こなす彼女とは思えないほど淑やかで、あの悪魔が清楚に化けるのかと瞠目する。
「貴方の知っているわたしなんて、ほんの一部なのよ」
 後日、いつも通りの黒づくめの出で立ちで現れたトーカは、艶然と微笑んでそう言った。
 傍らを半歩遅れて歩いていたミコトの頬が赤らんだ。彼女だけではない。道行く人々が思わず視線を向けてしまうほど、トーカには美しい以外の、言葉にできないオーラがある。レザーアイテムを着こなすときも、今のように淑女然としているときも。
 不意に袖を引かれて、フユトはミコトを振り向いた。
「あの人が、そうなの?」
 問いかけるミコトの瞳は、ときめきと期待で僅かに潤んでいる。どこか物欲しそうにも見える顔に、一瞬、フユトの奥底で眠る獣性が首を擡げそうになり、慌てて視線を逸らすと、
「……あぁ、まぁ」
 はっきりそうだと言えばいいのに、変に濁してしまった。
 ほぅ、と感嘆の息が隣から聞こえる。
「……きれいな人……」
 知らないうちが華だ、あれの中身は血も涙もない魔王と肩を並べる大悪魔だ、とフユトは内心で独りごちてから、
「終わったら連絡しろよ」
 と、トーカがこちらに気づく前にミコトを促し、彼女が声を掛けて合流するまでを見届けて、さっさと退散することにした。
 トーカの猫被りは大したものだったらしい。
 その日の夜、はしゃいだ様子のミコトのメッセージが連投され、詳細を聞き出そうと返信していたために、シギの不興を買ったのはまた別の話だ。
 今日は二人で何処そこへ行った、何を食べた、泊まりに行った等々、トーカと何かをするたびに、ミコトからは浮かれた連絡が入る。パートナーの性別はともあれ、仲睦まじい恋人同士のような様子に、トーカの化けの皮が剥がれるのはいつかと気が気じゃなかったけれど、どうやらフユトの懸念は杞憂に終わりそうだ。おねえさま──とミコトはトーカを呼ぶ──とお付き合いすることになりました、と一言メッセージが入って以来、幸せそうな報告はパタリとやんだ。
 季節は春も終わりに近づいていた。
「最近のあいつ、どんな感じ?」
 夏を思わせる陽射しが注いだ一日となった、夜。日中の汗をシャワーで流したばかりのフユトは、何とはなしにトーカの様子を尋ねてみる。
 国外からの連絡に目を通していたシギが怪訝に目を細め、地雷を踏んだか、と唾を呑んだものの、
「今のお前と同じ顔をしてる」
 視線を外してゆるりと口角を上げながら宣うものだから、
「は、俺?」
 思わず聞き返すと、
「鏡で見て来い」
 したり顔で嗤われた。
 自分で自分の顔を見たところで客観視などできないのだから、いつもと変わりないとしか思えない。こうして考えさせるようなことを言うときのシギは、だいたいロクでもないことをフユトに教えるのだから、それはつまり。
「……俺、そんな間の抜けた顔してる?」
 二人きりの空間で、シギにしか見せたことのない、充足した顔のことを指すのだろう。
 そんなに緩みっぱなしかと自分の頬を撫でると、
「俺の前ではいつもな」
 端末の画面に視線を戻したシギの横顔はいつもよりほんの少し、ティースプーン一杯分ほど、嬉しそうに緩んでいた。
 お前もじゃねェかよ、と思いながら、殺伐としてギスギスしていた頃を振り返る。敵意と殺意、陵辱への抵抗ばかりが先に立っていたはずなのに、何がどうしてこうなったのか。逃げたくなくなるほど、溶かされてしまった。
 トーカがそんな感じなら、ミコトも大丈夫かも知れない。プレイスタイルは違っても、トーカはシギと同類だ。きっと、骨の髄までグズグズに、溶け落ちそうなくらい愛されて、自分が寂しがり屋だったことを忘れるだろう。少しずつ、少しずつ、ゆっくりと、フユトが警戒を解いたように。強さも弱さもお前だから全て愛してやると抱きしめられて、ようやく、歪なままでも、この世界に生きていていいのだと実感できたように。
 サディストの愛は懐が深いのだ──シギの場合は別として。
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