Gemini-2

文字数 2,667文字

「俺は普通に飲んでるだけだろうが」
 正論を述べるアゲハも、彼を見守る視線も気に入らない。生まれついての目つきの悪さを生かして睨めつける。慌てて逸らされる視線は放っておいたが、アゲハが怯むことはなかった。
「ここで揉めたら、オーナー呼びますよ」
 子犬バーテンの殺し文句に、フユトは一瞬、身体を強ばらせる。動揺を悟られまいと視線は逸らさなかったものの、フユトの弱点はよく知っているアゲハだ。脅しではなく本気だろう。
「お店、閉めたら聞きますから、絶対に揉めないで下さいね」
 釘を刺されて、フユトは目を伏せた。
 素直に言うことを聞くのは癪なので、店はすぐに辞した。アゲハがシギの回し者の可能性もある。フユトを引き止めて、飼い主の到着を待たせるつもりだったのかも知れない。
 あれから二日、シギからの連絡は一切を無視している。関係が深まってからは初めてのことだ。声など聞きたいと思わないし、兄のことについて言い訳などされたくない。
 ハウンドになると決めて、シティホテルの部屋で暮らすようになって。半年が経とうとしていた頃、夜中に部屋を抜け出したシュントがどこへ行くのかと尾行したことがある。当時はフユトの眠りが浅かったから、微かな衣擦れの音にさえ目が覚めたのだ。
 シュントはシティホテルの最上階に行った。同じエレベーターに乗り込むわけにはいかなかったので、非常階段を使って追跡すると、ちょうど、ある一部屋に入るシュントの背中が何とか見えた。
 そこで何をするのかと、扉に耳を付けなければ、フユトは何も知らずにいられたのに、耳を聳ててしまった。シュントが甘えるように話す声のあと、シギの声がして、竦んだことは覚えている。会話の内容は聞き取れなかったけれど、そのうち二人が何を始めたかなんて言うまでもない。
 男娼は辞めたのだから、誰とも会わないで欲しいと懇願したフユトを裏切って、兄はシギとの関係を続けたのだ。そうと知ったとき、視界が揺らぐ目眩のような失望に、フユトは全てを奪われたと思った。飄々としたシギも、ずっと傍にいると約束した兄も、殺してやりたいと憎悪するほどに。
 熱帯夜を泳いで自宅に帰り着く。冷房と明かりをつけないまま、蒸し暑いリビングの固いソファに力なく座って、真っ暗な天井を仰ぐ。
 座面に投げ出した端末が震えた。それとなく目を向けると、子犬バーテンの名前が表示されている。
 無視した。一人で居たかった。
 蕩けそうに甘い顔も、滴る蜜を予感させる声も、好きだった。大好きだった。どうしようもなく寂しがりで甘えたがりなお前はお前のままでいいと言ってくれた、包み込んでくれたシギは最初から、フユトだけのものなんかじゃなかった。
 びく、と身体が震えて目を覚ます。午前一時四十二分。短い夏の夜を超えられる気がしない。夜明けが遠い。果てしなく遠い。
 僅かに眠り込んだ間にかいた汗をシャワーで流し、フユトは深夜の街に繰り出した。
 戦前も戦後も、歓楽街は不夜城だ。眠れぬ人々が、眠らぬ人々が、束の間の夜を泳いでいる。時に喧騒で人恋しさを紛らわすように、時に夜闇の中へ溶け込むように。
 色付きガラスのボトルに入ったビールを飲みながら、性別を問わず一夜のパートナーを募る人の群れを眺める。フユトはそこに積極的に加わるわけでもなく、ぼんやりとナイトクラブの片隅の壁に凭れながら、身体の底に突き抜けて響くようなテクノミュージックを聞くともなしに聞いている。
 所謂、ハッテン場と呼ばれるような場所に来るのは初めてではなかったが、相手を求める浮ついた気持ちにはなれなかった。ジリジリと焼けるような感情のやり場は、ここでも見つからない。
 ハッパや種子、セックスドラッグで高揚した人々が、衆目も気にせず抱き合ったりキスしたり、果ては脱がし合って愛撫を始める様子を漫然と眺めても、そんな気分にはならなかった。他人の指に触られるのは御免だし、他人の肌に舌を這わせたいと思うこともなかった。
 あれらが全て嘘だと言うのか。
 シギの言動や行動を何処かで疑っていたからこそ、現実になってしまったのではないかと思うとやり切れない。
 口づける薄い唇の触感が生々しく蘇る。絡まる舌の合間に薄目を開けてシギを見ると、心から愛しそうに目を細め、ゆるりと口角を上げて微笑されるのを思い出す。もう、戻れないところまで来てしまったのに、これはやはり、兄を幸せにできなかった報いなのだ。
 ごめんな、と詫びるシュントの泣きそうな顔に心を動かされたことなんかなかった。だから躊躇いもなく拳を振るったし、首を絞めたし、抵抗を封じてレイプした。それではいけないと思うのに、その身体も心もフユトの傍らには居ないのだと実感すると、酷く傷つけてしまいたくて仕方がなくなる。お前は俺のことを簡単に踏みにじるくせに、自分ばかりが被害者面をするのかと、狂おしい衝動を持て余して。
 シュントにつらい思いをさせてきた。だから幸せにしてやりたい。そう思う反面、俺だってつらかったと泣きたかった。お互いにつらい六年を過ごしたのだから、労り合えれば良かったのだろう。糸が縺れた原因も理由もわからぬままだ。今更、シュントに合わせる顔などないし、詫びる言葉もなかった。
 どうして、あいつだけ。
 目を伏せて、瞼を閉じる。
 あいつだけ、シギの手を離さずに居られる。
 ドラッグに興味はなかったものの、気持ちが荒みきった今なら高くトべる気がして、フユトは壁から背中を浮かせ、極彩色と音の坩堝の中へ踏み出した。
 挿入する側として誘った経験なら、それなりにある。しかし、挿入される側として誘うことも、誘われることも未知の体験で、奥底で沸き立つ不安を掻き消すような目くるめく興奮は人を殺めるときのそれに似ている。
 が、フユトの空隙はたった一晩の火遊びなんかでは埋まらないし、何なら更に寂しさを加速させただけだった。
 悦いところを知り尽くした舌とは、加減も攻め方の手順も違う。吸引タイプのエクスタシーをキメていなければ、勃つものも勃たずに相手を興醒めさせただろう。悪くはなかったが満足もしなかった。これ以上、辛辣な感想もない。フユトが言われる立場だったら間違いなく自信をなくすし、ワンナイトにはしばらく懲りるかも知れない。
 モーテルを出た瞬間から顔も思い出せなくなる相手と別れ、ドラッグ使用後の偏頭痛を堪えながら自宅へ戻る。今日も今日とて猛暑日を観測しそうな外気温に充てられて、寝室の冷房の設定温度を下げられるだけ下げると、そのままベッドに倒れ伏した。
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