雨季-1

文字数 2,112文字

 タッ、と音を立てて、大粒の雨が地面を打った。
 乾いたアスファルトを叩く雨粒は間もなく本降りになる。
 空に低く垂れ込める真っ黒な雲が、どうやら雨の元凶らしい。駆け込んだ軒先で上を仰ぐ。視界は瞬く間に白い滝のような雨で烟り、ゼロに等しい。
 濡れて張り付く髪を掻き上げ、嘆息した。これが止むまで、しばらくは動けないだろう。
「おにーさんも雨宿り?」
 不意に傍らから聞こえた声に振り向く。急な雨を嫌悪し、うんざりしていたとはいえ、新たに軒下へと飛び込む気配に気づかないなんて、油断もいいところだ。
 しとどに濡れた服が透けている。形の良い乳房を覆う紫の下着が目に入り、咄嗟に視線を逸らしてしまったので、顔は見ていない。
「……あぁ、気にしなくていいのに」
 彼女は恥じるでもなく言って、肌に張り付く白のカットソーの襟を摘み、デコルテを見せるように引っ張った。濡れた服が気持ち悪いと訴える所作にさえ、どういうわけか動揺してしまう。顔を逸らしてしまった割に、ちらちらと盗み見ている己の本能にも。
「見せる仕事してるから、気にしないよ」
 彼女が並び立ちながらあっけらかんと言うので、フユトは顔を前に向けたまま、横目で紫の下着の輪郭を見てから、更に視線を上にやった。
 ショートの髪は栗色。髪と同じ色をした黒目がちの瞳。コンパクトに纏まった顔立ちは小動物を彷彿させる。すらりとした首は長め。百八十近いフユトより十五センチ以上は低い身長ながら、手足が長いので小柄には見えない。
 職業モデルか、と勝手に得心しつつ、視線を外す。性の対象としてはまだしも、女は苦手だ。口さがなかった旧い知り合いを思い出してしまう。
「あ、雷」
 瞬間的に走った雷光に、十代後半から二十代前半と思しき彼女が呟くと同時、轟くような雷鳴が地面を震わせた。
 雨はますます激しくなる。
 苦手なんだよな、と内心で独りごちながら、フユトが二回目の溜息を吐くと、
「世界の終わりみたい」
 彼女が心から楽しそうに、はしゃぐように笑った。
 唇から覗く八重歯、頬に浮かぶ笑窪。
 少女のようなあどけない笑みを浮かべているのに、円らな瞳だけは笑うことがなかった。何処かの誰かほど暗澹としてはいないものの、その顔にはぎくりとする。
 雨宿りする軒下にまで、アスファルトを叩く滴が弾け、足元を濡らす。篠突く雨の音が聴覚を包み込む。
 嵐の夜の中で見た、闇より昏い二つの孔が、脳裏を過ぎった気がした。
 自らの体を抱き込むようにしながら、彼女がふるっと震えた。余分な皮下脂肪などなさそうな細い肢体で、更に濡れたままの服では、さすがに冷えるだろう。
 紫の下着が目に毒だからと言い訳しつつ、羽織っていたシャツを脱いで、前を向いたまま彼女に渡す。気づいた彼女が戸惑うように瞬いたあと、そっと受け取って嬉しそうに含羞むのを視界の端に捉えて、複雑な心境になった。
 セオリー通りなら、ここから何かが始まるのだろう。偶然の出会いは運命だったとキャプションが付いて。
 そこまで濡れずに済んだフユトのシャツを羽織り、じっと空を見上げる彼女を横目に、三回目になる溜息を零す。めんどくせェな、がフユトの感想だ。
「……おにーさん、何してる人?」
 しばしの沈黙を挟み、不意に彼女が尋ねてきた。
 先程、雄の本能でちらちらと盗み見たフユトよろしく、彼女も何かを伺うように視線を向けるのには気づいていた。脱いだシャツの下はタンクトップ一枚だから、腕に刻まれた古傷が目に付いたのだろう。じろじろ見るなよなんて言えた義理ではないから黙ってはいたものの、指摘されたようで良い気はしない。
 彼女の問いには答えず、フユトは胡乱な視線を向けるに留めた。止まない雨を見上げるフリをしながら、長い足止めに苛立つフリをしながら。
「喧嘩慣れしてる?」
 彼女が問いに問いを重ねるから、よく喋る女だなと四回目の溜息をついて、
「……だから何だよ」
 遂に口を開いた。
 鬱陶しいと言外に告げる声に、けれど、彼女が臆す様子はない。
「お金で雇われる気、ない?」
 ほらな、とフユトは鼻白む。セオリー通りだ。
 ただ、金になる話は嫌いではない。
「額による」
 雇われた結果、何をさせられるかよりも、額面を気にしてしまうのだから、このテの話には慣れていると思われただろうか。荒事や血腥い話は何よりも好物だから、つい先走ってしまう。
「そこは店長と交渉してよ」
 職業モデルとばかり思っていたので、予想外の単語に、思わず眉が上がった。なるほど、箱物の風俗嬢だったかと思い直す。
「言い値は無理だけど、悪いようにはしないと思うよ」
 フユトの些細な表情の変化など気にも留めず、彼女は言って、
「あ、止みそう」
 いつの間に、小降りになった雨模様への感想を零した。
 路上で袖を引く売春行為が横行しているとはいえ、売春を実質的に斡旋する合法施設も健在している。それらは歓楽街の片隅に密やかながら存在していて、男共の衝動の捌け口として機能している。
 ミコトと名乗った彼女が勤めるのは、小規模な大衆店だった。小動物のような面立ちに屈託のない愛嬌が伴い、スレンダーな体型のせいか、彼女は在籍店のナンバーワンなのだという。
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