ポーカーフェイス-2

文字数 2,128文字

 だからって、これは、ない。
 羞恥に震えるフユトが突っ立ったままなのを急かすように、
「何でも言うことを聞くんだろう」
 寝室の入り口で腕組みしながら壁に凭れるシギが、発破をかける。
「いや、でも、」
 冷たく響く調教者の声に、フユトは思わずシギを微かに振り向いて、言い募ろうとした口を噤んだ。
 冷徹な瞳が凍てついている。絶対零度の光でフユトを射殺そうとしている。朝帰りしたことを怒っているのだと直感し、いやでもずっと賭博場にいたのだから浮気はしてない、と言い訳しようとしたところで、部屋を出るときに、早く帰れと言われていたことを思い出した。
 シギがフユトと何をしようとしていたのか、その言葉だけではわからない。わからないけれど、イカサマなしに持ち金が増えていくのが楽しくて、今の今まで忘れていた事実は重大だ。音を立てて血の気が引く。冷や汗どころの話じゃない。
「シギ、あの、」
「あ?」
 恐る恐る、勇敢にももう一度、シギを振り向いたフユトは、組まれた薄墨色の腕と低い声音にびくりと竦んで、二の句が継げない。
「あ、やまるから、早く帰らなかったの謝るから、」
 はくはくと無意味に空気を取り込んだあと、どうにか声を紡ぐと、
「言うこと聞く、つったのはお前だろうが」
 シギの口調がより荒くなるのを聞いて、深く俯いた。
 自慰をしろ、と言われた。それもなるべく下品に、観察するシギを煽るように。
 意図せず見られたことなら何度かあるけれど、あれは事故だからしょうがない。ほとんど同棲しているのだから、意図せず見られてしまうのはあるとしても、見せるためにするものなんかでは決してない排泄作業だ。煽れ、と言うのだから、何をどうすべきかは何となく理解できるからこそ、羞恥と嫌悪が先に立つ。
「それとも、」
 シギが言うなり、壁から背を浮かせて一歩踏み出すから、嫌な予感がして一歩下がる。
「言うこと聞きたくなるようにしてやろうか」
 怖気しかしない脅し文句に、さしものフユトもブンブンと首を振って、
「いい、そういうのいい、間に合ってるッ」
 悲鳴じみた声を上げた。
「さっさとやらないと、こっちで勝手に進めるぞ」
 再び壁に凭れながら、シギが不穏に宣う。
「俺が何をしようと抵抗しない、そういう意味で取っていいんだな」
 フユトに有無を言わせぬ圧を宿して確認する。
 項垂れたフユトはそれでも、どうにか逃げ道はないかと画策して、額が熱く感じるほど考えに考え、いい案が浮かばないとなるとシギをちらりと上目遣いに見やって、可愛げもないのにどうにか取り入ろうとしてみる。惚れた弱みだ、仕方ないとシギが相好を崩し、甘やかしてくれないかと一縷の望みを託してみるけれど。
「腕突っ込んで腹ン中まで掻き回されたい、そういうことでいいんだな」
 言って、シギが凄惨に右の口角を上げるから、死ぬ、と言いかけた喉がひゅっと鳴った。
 フィストファックを匂わされたことはごまんとある。それこそ、フユトが何らかの粗相をして仕置きをされるたびに聞かされる。実際に指を四本入れられたときには恥も外聞もなく泣き喚きそうになった。みぢ、と不気味に軋む粘膜の縁が裂けそうで、痛みと熱を帯びるそこが壊されてしまうのが怖くて、あの時は許してもらうまで、声が枯れるまで謝ったっけ。シギはフユトに甘いから、本当に嫌がることは絶対にしないと思うのだけど、稀に本気を匂わせるから、何処までが躾で、何処からが本意なのかわからないのも悪いのだ。
 固まるフユトに、シギが溜息をついた。
「このまま言うことを聞くのと、言うことを聞かされるのと、フィストで使い物にならなくされるのと、どれがいいか選べ」
 だって、そんなの、どれも選べない。
 フユトを甘やかすのが大得意のシギだから、恐らく涙目になっているだろう瞳で、訴えるように視線を投げる。せめて、どうして怒っているのかだけでも教えて欲しい。そしたら少しだけ緊張せずに、身を委ねられるかも知れないから。
 シギは相変わらず冷たい眼差しのままだった。フユトは俯く。ぎゅ、と身体の脇で拳を握る。
「……他のがいい」
 聞き分け悪く呟いて、
「他のだったら聞くから」
 生意気にも条件付ける。
 シギの舌打ちが聞こえた。びく、と竦んだ。
「お前が言い出したことだと、何度言えばわかる」
 粛清の現場で手駒に死刑を言い渡すときの声で、シギが言う。
「さっさとやれ、グズが」
 口調がますます荒くなって、
「減らず口叩くと殺すぞ」
 地を這う声に、胃の腑が冷えた。
 泣きそうだ。いい歳なのに。思いながら、フユトはシギに抗えない。このまま体裁を気にせず土下座したところで、シギはフユトの頭を踏みつけて嬲りものにするだろうし、どんなに詫びを入れたところで許しなどしないだろう。
 どうしてそんなに怒っているのかもわからないのに、勃つものも勃たないほど萎縮してしまっているのに、下品な自慰をしたくなるほど興が乗らないのは当たり前だ。
 ぎこちない動作で服に手をかける。されたことはないけれど、強姦魔に従わされる気分だ。身体も気持ちも重い。かつて、フユトが金を出して買った娼婦や男娼も、本音はこんな心地だったのだろうかと考えて、また動きが止まった。シギの舌打ちがした。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み