喵喵-5

文字数 2,359文字

「お前だって連絡してこねーじゃねェか」
 認めてしまうわけにはいかない。
 目を合わせないまま、フユトはシギに反撃する。顔を見られないから、シギがどんな反応をしたかはわからない。
「……こう見えて、俺も我慢してる」
 だから、抑揚や感情に乏しくはあっても、シギがそう言ったとき、フユトは思わず顔を上げてしまった。暴君と恐れられ、化け物と呼ばれるシギはやはり眉一つ動かさなかったけれど、地獄の底を見てきたような暗澹とした瞳の奥は、底抜けに優しい。
「声を聞くと傍にいてやりたくなる」
 言いながら、頬を撫でる指は冷たい。フユトの下唇をそろりと撫でながら、
「俺のせいで、悪いな」
 シギがどこか、切なそうな目をするから。
 フユトの内側に音を立てて走った亀裂が、ボロボロと崩れた。
 敵意で始まった二人なのに、今はもう、シギがいなくなることなんて考えられない。罠に掛けられるまでもなく、フユトはシギに堕ちている。何も見ず、何も考えずに済む時間と空間は、気を張り続けたフユトには劇薬より甘美な毒物で、摂取しなければ生きていけない。フユトにとっては酸素と同じなのだ。
 ぽつ、と、顎を通って何かが滴る感触に、フユトはふと、瞬きをした。シギの掌がそっと、それらの軌跡に触れて、拭ってくれる。
「……さみしい、なんて、思っちゃいけないんだ」
 中宙を見据えるように視線を下げ、フユトは言う。
「……弱いと、生きてけねェから」
 廃墟群で見送った顔見知りの少年少女は、弱かったから逝ったのだ。
「……俺は、まだ、」
 声が震えた。
「……しにたくない……」
 声が掠れた。
 少しの油断が命を脅かし、少しの選択ミスが取り返しのつかない事態を招く。慎重すぎてもいけないし、大胆すぎてもいけない。際どいところを見極める勘を育てないと、無力な子どもは容易く死体に変わる。
 どんなに寒くて凍えそうな夜も、暖を取るために火を焚くことはできなかった。自分の体温と廃棄された段ボールだけが頼りの、長くて寒い夜。負けてしまえば二度と目覚めない恐怖がすぐ傍に横たわり、緊張を強いられ続けた終わらぬ日々。
「怖くない」
 シギの声がしたけれど、フユトには何も見えなかった。
「お前は弱くない」
 抱き締められた気がしたけれど、それも全て、長い夜に束の間見る、夢なのかも知れなかった。
 生きたい。死にたくない。殺されたくない。生きていたい。
 本能が呼び起こす様々な思考や感情が、精神を蝕む劣悪な環境はもう遠いのに、フユトはまだ、朝、目覚めたら、そこに戻っている気がしてならなかった。殺されずに済んだ幸運な夜に見た、長くて温かで柔らかな悪夢が今なのではないかと。実は既に死んでいて、意識が脳から消失する間に見ている幻が今なのではないかと。
 怖かった。怖いのだ。今もずっと怯えている。夢の終わりが来ることを。永遠のように感じていた夜に戻される瞬間を。絶望を突きつける朝が来ることを。人知れず横たわる骸になることを。
 強くなんてなれなかった。そんな日は、永遠に来ない。だから、だから──。
「……こわい……」
 強く振る舞わなければならないのに、弱さを曝け出すのは、死に等しい恐怖だった。
「……こわい……」
 これが夢でないのなら、幻なんかじゃないのなら、
「……こわい……」
 溺れてしまわないよう、ずっと、抱き締めていて欲しい。
「傍にいる」
 言い聞かせる声がする。
「お前のことは俺が殺してやるから」
 背中を擦ってくれる掌がある。
「傍にいろ」
 息が整う間もなく、キスをされた。唇が触れて、啄むだけの、戯れのキス。額に額が触れる。視界の中にはシギが居てくれる。
「……寂しかった」
 呟くフユトに、
「悪かった」
 シギは微笑みながら言って、ソファの座面に優しく押し倒しながら、フユトの酸素を肺胞から奪い去った。
 どこまでも甘やかされるセックスをして、一眠りし、フユトが目を覚ましたのは二日目が終わろうとする頃だった。傍らにはシギがいて、寝起きでぼんやりするフユトの額に、キスをしてくれた。
 何だかすごくとんでもないことを仕出かしてしまったあとのような、深い脱力感がある。起き上がって何かをする気力は沸いてこない。
「……シギ」
 名前を呼ぶだけ呼ぶと、携帯端末に届く定期報告に目を通しながら、シギが片手を伸ばして髪に触れてくれる。
「……すきって言え」
 子どもよりも酷い醜態を晒した自覚があるからこそ、フユトがぼそりと命じると、
「一件だけ返信するから少し待ってろ」
 仕事のことも気にかけなくてはならないシギにいなされた。
 髪を撫でる手が心地いい。セックスのあととはまた違う疲れと倦怠が共に蟠るせいか、微睡みがやって来る。
「……シギ、」
 眠ってしまったら二日目が終わる、と、遠のく意識の片隅で思うけれども、目を開けていられない。辛うじて残る意識で名前を呼んで、彼が振り向いたかどうかもわからないのに、
「俺も好き」
 半ば寝言のように呟くと、
「愛してるから、寝ろ」
 堕ちる寸前、シギの声が聞こえた気がした。
「……ん、」
 頷く。睡魔に呑まれる。抱き寄せられる感覚がしたけれど、覚醒することはできなかった。
 深く深く眠る。夢も見ずに眠る。だから此処は現実で、夢なんかではないと理解する。やっと、理解する。
「ぁ、も、それ、痕になる……ッ」
 ぢゅ、と鋭い痛みと共にシギが項を吸うから、フユトは抗議した。
「ふざけんな、馬鹿、クソ、死ねッ」
 三日目。
 起き抜けのフユトがベッドでだらけているところを、シギに襲われた。背中から抱き込まれる形で四つ這いになって、達しないように加減した手で朝勃ちを扱かれながら、肩や首筋、項を吸われるたびに抗議して、遂には罵倒する。
 昨日のセックスとは真逆の始まりだ。甘く悶えるだけだったあれは何だったのかと問いたい。
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