Pain-3

文字数 1,736文字

 拘束は解かれて久しいらしく、腕に痺れは残っていない。落ちたのはリビングだったはずだけれど、今は水底のような寝室だ。
「……悪かった」
 指の背で頬を撫でて、シギが言う。落ちる前にも、そんなことを言っていた気がする。
「今、何時」
 どれくらい放置されて、落ちてから何時間が経ったのか。確認するために聞くと、会話をする気がないと判断されたのか、シギの手が離れていく。
「二十時だな」
 段取りの打ち合わせを始めたのが十四時だったから、かれこれ六時間か。思いながら額のタオルを取って、シギに渡す。
「面倒かけた」
 終わったことで錯乱するようなことなんて、ないと思っていたのに。
 内心の動揺をひた隠し、ぞんざいに告げて起き上がると、フユトはシギと視線を合わせないまま、傍らを通ってベッドを出た。
 パニック発作なんて起こしたことがないから、どんな顔をすればいいのかわからないのもあったけれど、今はシギと一緒にいられない。普通じゃないのはフユトも同じだ。
 脳裏にちらつく、ハイエナ共が貪ったあとの遺骸の光景が、フユトを過去に戻したのかも知れない。クライアントの彼女も同じようになってしまったのではないかと、気にしていたから。
 実母が同じ目に遭わされていてもトラウマになんかならなかったのに、どうかしている。母と過ごした記憶がないからだろうか。
 初めて過呼吸を起こしたせいか、体も気持ちも酷く疲れていた。何も考えずに三日ほど寝ていたいと思いながら、寝室を出ようとした刹那、腕を後ろに引かれて思わずよろける。背中にぶつかる胸板の持ち主は、振り返るまでもない。
「……なに」
 声は自然と険を帯びた。それもそうだ。こうなった原因の大半は、背後の男にある。
 逃がすまいとする両腕が、首元を通って前に回る。優しいながらも抵抗を許さない、絶妙な加減で抱き竦められる。
「誰のことも考えるな」
 殺気さえ孕む低音の声に、ぞっとする。
「お前は俺だけ見ていればいい」
 逆らえば殺す、と声は告げていた。
 それがこいつの本音かとわかった途端、急に全身の力が抜ける。いつもこちらを子ども扱いするくせに、シギのほうがよっぽど子どもだ。
「……ガキかよ、お前」
 人付き合いに慣れていない齢頃の子どもと同じだ。お気に入りを独占したくて愚図る、幼児と同じレベルだ。
「すきだよ、俺は、お前のこと」
 シギの腕の中で彼を振り向き、フユトは目を見て告げる。望むことさえ諦めるしかなかったのだろう、昏い双眸を覗く。
「誰にも取られるかよ、バーカ」
 フユトの前でだけは、怪物も血の通った人間に戻るのだ。かなり理不尽ではあるものの、不器用で、臆病で、前に進めないフユトと同じ生き物になる。
 望んでも見捨ててくれないシギだから、フユトも決して見放してやらない。それだけが約束された安息があれば、互いの傲慢も理不尽も飲み下して、共存できる気がする。
 どちらからともなく唇を寄せた。ぬる、と差し込まれた舌を享受すると耳を塞がれ、粘膜を掻き回される音を間近で聞くことになる。
「……それ、すげー卑怯……」
 ようやく解放された唇で紡ぐと、
「……シたい」
 耳に吐息を吹き込むように、シギが告げる。
 こうして意思を確認されるのは初めてかも知れない。いつもは済し崩しに事が進むし、だいたいフユトがその気にさせられるので、確認するまでもないだろうと思っていたのに、だ。
 シギがやけに恭順なのは、先程の罪滅ぼしのつもりだろうか。
「駄目、って言ったらどうすんだよ」
 抱きしめられながら、揶揄うつもりで問い返す。疲労感があってもなくても、キスをされたらフユトの負けだ。いつも先を望んでしまう。
 シギは逡巡しているようだった。しない、とも言えないし、フユトの意思を無視することもできないと、考えあぐねている。
 いつものように無理やり暴かれたって構わないのに、むしろ、その暴虐ぶりがシギらしいのに、本当に難儀な奴だ。或いは、言わせようとしているのかも知れないけれど。
「急にしおらしくなるなよ、お前らしくねェな」
 悪戯を叱られた飼い犬みたいだと思いながら頭を掻き抱くように腕を回し、今日ばかりは仕方ないと腹を括って、
「俺が満足するまで尽くせよ」
 首元に口をうずめて、もそもそと告げた。




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