Thx, I love you.-5

文字数 2,293文字

  Little boy編

 その少年は、十二歳ほどだと言うのに、子どもらしさがなかった。
 オオハシが同じ歳頃だった頃は、級友とつるんで出掛けたり、時と場所を弁えずに大声ではしゃぎ回ったりして、大人に迷惑をかけたものだ。そうやって周囲に眉を顰められる経験から、その場に相応しい振る舞いが身につくものだし、子どもというのは得てしてそういうものだと、通ってきた道を振り返りながら、オオハシは思うのだ。
 少年は確かに不自然なほど寡黙だし、活発な性格ではなさそうだから、一人で黙々と読書をするのを好むのかも知れない。知れないけれど、そうやって内へ内へと閉じこもりがちな彼を見ていると、周囲の全てを拒絶しているかのような物悲しさと虚しさを覚える。
 家族という身近な大人との関わり合いの中で、他者への信頼が育たなかったのだろう。育つはずもない環境で、育児放棄や小児売春を受けてきたのだ。無視と暴力しか知らない彼が他人に心を開いて寄り添おうとするのは、どだい、無理な話に思えた。
 だから、オオハシにとって、意思表示をしない少年はとても都合が良かった。目を離すと部屋に篭ろうとする彼の手を引っ張り、父か叔父にでもなった気分で外に連れ出し、好みかもわからない食べ物や飲み物を買い与え、それらを観察するように眺める少年の横顔に生気が戻りはしないかと、根気よく見守るためにはちょうど良かった。
 郊外に広がる戦災遺構群──俗に廃墟群(ストリート)と呼ばれるエリアの更に先の砂地を超えて、灰色の海に出る。鈍色の水面には暗い波が立ち、かつて美しい景色が見渡せたという名残はない。あの広大な海で、大昔は泳ぐことができたと言うけれど、大戦後の海水浴は自殺行為を意味する。セシウムやトリチウムといった有害物質が溶け出した殺人プール、人類を育んだ末に脅かす母胎だと、学者たちはこぞって言う。
「少し寒かったな」
 長袖ではあるものの、薄着姿の少年に向かって、四駆車を降りたオオハシが言う。海から吹き付ける風はだいぶ冷たい。
 半減期を迎えて年月の経つ海は、入るのには向かなくとも、防波堤から眺めるくらいなら影響がないとされている。もうじき、陸から張り出した防波堤の一角のテトラポットに、冬の荒波が叩きつけられるようになるだろう。
 厳重に鍵を掛け、分厚い壁に囲まれた内側に自分を隠す少年は、この海を見て何を思うだろうか。何も見ないよう、何も感じないよう、自分を深いところに閉じ込めてしまったから、物悲しい海も取るに足らない光景なのかも知れない。
 車を隔てて右側に立つ、少年に目をやる。真っ直ぐに何処かを見据えているようで、現実の何処にも焦点を持たない双眸は、今日も今日とて虚ろだ。
 可哀想に、と、少年の生い立ちを聞いたときに、オオハシは率直に思った。親を選べないばかりに、とんでもない不幸を背負ってしまったと。拭い去れないトラウマを抱えて長い人生を歩んでいくのはあまりに酷だから、彼が少しでも、此処に生きる意味を見出して欲しいとオオハシは思う。思うからこそ、少年の多忙な養父の代わりを担うことで、壊れかけた彼自身が生気を取り戻してくれたらいいと願う。満身創痍になりながらでも、再び立ち上がるための支えになれるなら、オオハシは、どんなことだってできるのだ。だから、こうして公休を返上し、少年を外に連れ出すこともできる。手を引かれるままの少年を人混みに連れ出すこともできる。
 車に戻った時には、身体はすっかり冷えていた。隆々とした体躯のオオハシでさえそうなのだから、骨と皮のような少年は凍えてしまっただろうと助手席を見る。何も見ていないし、何も感じていない横顔は前だけを見ていたが、凝視するオオハシの視線が強かったのか、虚ろな瞳が振り向いた。
「……冷えちまったな」
 苦笑いしながら、オオハシは助手席の少年の手を取った。案の定、業務用の冷凍庫にでも居たのかというくらい、冷えきっている。
 小さな手だ、とオオハシは思う。同じ歳頃の少年たちより、ほんの少し小さな手。
 この手が掴めなかった幸せを、大人になったら掴んで欲しい。心から愛する誰かと寄り添って、過去もトラウマも気にならなくなるくらい、誰かを愛し、愛されて欲しい。
 オオハシの願いが届いたわけでもないだろうに、冷たく悴んだような指が、オオハシの武骨な手を微かに握り返してきた。思わず少年を見ると、彼はそっと目を伏せて、オオハシの大きな手を見つめていた。
 大丈夫だ、と、根拠もなく思う。きっと、この少年は大丈夫だ。
「何かあったかい物でも飲んで帰るか」
 オオハシは言って、小さな手をぎゅっと握った。僅かに緊張を見せた華奢な身体は、すぐに力を抜いて、オオハシを害のない存在だと認めた。
 帰路は海岸線をドライブして、遠回りした。途中、海沿いの小さな町のこぢんまりしたカフェに立ち寄り、アメリカンコーヒーとミルクココアを持ち帰りで買った。ブラックのアメリカンはともかく、ココアにはミルクと砂糖多めと注文したら、店員が驚いたような顔をしていたけれど、もちろんココアは少年用だ。食事をしないために痩せ細った身体を思ってのことである。
 少年は冷えた両手でカップを持ったまま、車窓の外に広がる水平線を見つめていた。運転中のオオハシには後頭部しか見えないから、彼の視線に焦点が宿ったかどうかはわからない。ただ、何となく、彼は此処ではない何処かの存在に興味を持ち、水平線の向こうにあるものを想像していることはわかった。あの水平線の向こうでは、未だに戦災が続く国があることを教えてやろうと、オオハシは誓った。
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