Pain-1

文字数 2,251文字

 ミコトがいなくなったと知ったのは、彼女の失踪から一週間が経つ頃だった。
 風俗店の事務所まで契約金を受け取りに行った際にミコトの行方を尋ねられ、向こうから一方的に言い寄られた時期はあったものの、クライアントとしての付き合いに終始していたと答えたやり取りの末、発覚したのだった。
 最後に会ったときも笑っていたのに、何があったのか。二番目として扱う誰かに、体の中身を奪われて売られてしまったのか。
 ぽすん、と丸めた紙で頭を叩かれて、ふと我に返る。狙撃の依頼が来たからと、シギと段取りの打ち合わせをしていたことを思い出して、ごまかすように咳払いした。
「考え事か」
 感情の読めないシギの目が、こちらを見ている。
「……何でもねェよ」
 彼女の安否を気にしていたとは、口が裂けても言えない。
 シギの視線から逃れるように、リビングのローテーブルに広げられた図面へと目を向ける。
 話の続きを促すつもりだったのに、シギは一向に口を開こうとしなかった。焦れて目線を上げると、静かに凪いだ昏い瞳と視線がかち合う。
 マズイ、と咄嗟に思った。内面が荒れ狂うほど、シギの瞳に感情がなくなることは知っている。元から無に等しい表情が更に血の通わない能面になって、フユトを白々しく見つめている。
「昼、食い損ねたから、腹減ったなって考えてたんだよ」
 とりあえず、適当な理由を作って沈黙を破る。
 フユトの行動は逐一監視されているような状態だから、シギも何があったか知らないわけではないだろうけど、注意散漫の理由は別だと主張しないと、これから困ったことになる。
 普段は心地よく思う束縛も、シギの場合は病的だから、少し間違うと監禁ルートだ。
「悪かったって、さっさと話終わらせて、飯でも……」
「──へェ、」
 言い募るフユトの言葉を遮断する、シギの声は絶対零度を思わせるように低く凍てつく。
 凍りつくフユトの目の前で、シギが頭を叩くのに使った資料の束が、ぐしゃりとひしゃげる。
 綺麗に、緩やかに弧を描く唇とは裏腹に、決して笑わない双眸が、真っ直ぐにフユトを射抜く。
「素直に謝れば許してやったのに、な」
 獲物を憐れむ声が嘲る。
 目の前にいるのが取り扱い注意の化け物であることを失念したばかりに、数多あるシギの地雷を見事に踏み抜いてしまった。
 下手なことを言えば、蹴倒されて肩を踏まれ、銃口を噛まされて一発で終わる。
 以前に一度、粛清の現場で見かけた鮮やかな処理の手際を、この場で思い出してしまった。最悪だ。
 向かいのソファからシギが立ち上がる。些細な動きにさえ、びくりと肩が揺れる。フユトに怖いものなんてないけれど、メーターが振り切れたシギは別だ。人でなしの真骨頂を見せつけられる。
 前に一度、酷く怒らせたときは、後孔にクスコを突っ込まれて拡げられ、二度と閉じなくなるのではと恐怖させられた。丸一日はそのまま放置されたせいで、しばらく違和感が取れなかったことを体で覚えている。
「……あぁ、俺だ」
 執務机に置いたままの端末で通話を始めた声がして、フユトの体はいよいよ強ばる。背筋を走る悪寒が止まらない。どんな手を使ってでも逃げを打たないと、何をされるかわかったものじゃない。
「所用が出来た、以降のスケジュールは代理を頼む」
 シギの行動に怯えるからか、自然と耳を聳ててしまうのも悪いのだが、そのせいで余計に追い詰められる。
「……悪かったって!」
 シギが通話を終えると同時、緊張感に堪りかねて、フユトは半ば叫ぶように詫びる。
「聞いてなくて悪かった、ちゃんと聞くから、話──」
「……ァあ?」
 メキ、と異音がした。痛覚に鈍感だから加減を知らない握力が、携帯端末の画面にヒビを入れている。
 振り向くシギの顔を見て、血の気が音を立てて引いていった。
 粛清対象を前にしたときの目だ、と、直感的に思う。人を物としか思わない、凄惨な殺人鬼の目。怖いものなしのフユトでさえも怯える、猟奇を孕む目。
「待てって……!」
 シギが半歩踏み出すのを見て、フユトは制止を求める。こうなったら何を言ってもシギは止まらないと、これまでの経験で知っていても、悪足掻きだけはやめられない。
「違うんだって、話を聞きたくないわけじゃなくて、なんつーかその、」
 何を言えばいい。口を開いて言葉を紡ぎ続けながら、その実、シギが納得するような理由なんて浮かばない。正直に、クライアントが行方不明になったから心配していたんだと言えば良かったのか。気に入られていたから仕方ないと、仕置きの手も緩んだだろうか。
「だか……ッ」
 危うく舌を噛むところだった。
 狼狽えるフユトに表情一つ変えることなく歩み寄ったシギの手が、喚き続ける顎を捉えて黙らせるように頬を掴む。
五月蝿(うるせ)ェな」
 普段のシギが絶対に言わない乱暴な口調に総毛立った。これは確実に、死ぬ寸前まで追い詰められる。
「黙ってろ」
 人の形をしていても、シギの中身は怪物に近い。共感能力の欠如に伴う薄情と、目を付けた獲物には飽きるまで執着し続ける異様な独占欲。両極端な性質がバランスを取っている間は、適度で居心地良く感じる束縛だから気に留めないが、本来のシギは深く関わり合いになってはいけない人種だ。
 器が大きい以前に、シギが本気で怒ることは滅多にない。彼自身がそもそも、喜怒哀楽に乏しい故もある。だからフユトは恐れず放言していられたし、シギと交わす軽口の応酬を気に入っていたのだけれど。
 シギの天秤がどちらかに傾く稀有な瞬間のトリガーを、誤って引いてしまった。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み