リリィ。-6
文字数 1,616文字
「お前の言葉を借りるなら、俺のどこがいいんだ、フユト」
聞かれて、フユトは固まる。いつまでのことだったか判然としないが、何かあるたびに、不貞腐れて再三口にした問いだ。
素直じゃなくて可愛げはないし、目つきは悪いし、横柄だし、憎まれ口で応酬するし、寂しがり屋のくせに気紛れだし、なかなか甘えられないし。そんな自分の何処がいいのかと、何でこんな俺なんだと聞いた。選り取りみどりのお前なら、もっと他に探せるだろうに。
投げかけてきた問いを投げ返されるとは思わなかった。どきりとして固まって、ぎこちなく目を逸らす。
他人の命など虫螻以下のように感じているのだろう冷血漢がシギだ。古代帝国の暴君よろしく君臨し、平民を睥睨するようなカリスマ性を帯びる絶対悪。であるけれど、シギはフユトにだけは甘いのだ。
フユトの怯えも孤独も受け入れて包み込む優しさが。求めれば求めるだけ満たされる甘やかな時間が。甘い声が。甘い顔が。甘い匂いが。こちらから振り払わない限り命ごと腕を握られていることが。いつの間にかなくてはならないものになって、そのどれかが欠けてしまっては、フユトは今のように満たされることなどなくなるだろう。
「何処が、じゃない」
枕に埋もれる唇で、フユトはもそもそと呟く。
静かに名前を呼ぶ声が。喉で嗤う声が。達する前に少し低くなる声が。不意に睦言を囁く声が。
つまり、何処がじゃない。どれかじゃない。それら全てでシギなのだ。声も、顔も、匂いも、仕草も、癖も、指の形や長さも。何か一つでも違ったら、フユトがフユトじゃなくなるように、シギもシギでなくなる。フユトが欲するシギではなくなる。
「いい、とか、悪い、とかじゃなくて……」
声が震えた。再三、シギに問うてきたことの答えが、今、実感として目の前に横たわっている。
太い弦でも巻かれたように、肺と心臓がぎゅうぎゅうと引き絞られた。痛くて苦しくて、泣き出しそうなほど切なくて、ぎゅっと目を閉じるフユトの身体を、シギの腕が抱き寄せてくれる。思わず背中を向けたのは、顔から火が出そうな心地だったからだ。
「こっち向け」
「やだ」
「いい子だから愚図るな」
「やだ、見んな」
「フユト、」
蕩けそうなくらい甘い声で名を呼んで、シギの唇がフユトの左耳に触れた。外耳から狂いなく鼓膜に注ぎ込まれる猛毒に、フユトの心臓は切なく疼く。
こんなのは、知らない。こんな思いはしたことがない。呼吸と鼓動を押し潰さんとする大きな何かが、フユトの身体の奥深くから沸き上がり、微温湯のような温度の何かが空虚の痕から全身に回って、静かに、忍び寄るように、侵していく。
誰かに恋をしたことなんかなかった。誰かと付き合いたいと思ったこともなかった。募る欲望は金を払えば都合よく発散できたから淋しくなかったし、兄に抱いていたのは恋愛とはまた別次元の感情だった。
お前だから愛してる。
鼓膜を揺らした言葉を反芻する。
自分が自分で在ることへの歓喜と、同じ言葉をそっくりそのまま返してやりたい衝動で身震いして、
「こっち、向け」
忍耐強いシギの穏やかな声に、爆ぜてしまいそうだと思った。
きっと真っ赤になっているだろう顔を見られたくなくて、素早く身体を反転させ、シギの鎖骨の下に額を当てる。子どもを寝かしつける仕草で後ろ髪を梳かれながら、胸郭の内側で鼓動する、シギの心音に全集中する。
良いところも、悪いところも、可愛げがなくても、気紛れでも、寂しがり屋でも、だから、シギは愛してくれる。
そんなこと、あるだろうか。あっていいのだろうか。無条件に愛されることなんて、か弱い子どもだけの特権ではないのか。
「他所にいくなよ、フユト」
顔を寄せた胸元の肋骨の奥で、シギの声が響いて聞こえる。十五の歳に邂逅したときと変わらない、静かに、穏やかに、辛抱強く、説き伏せる声音だ。
ぎゅう、と額を押し付けて、
「……いくかよ、ばか……」
掠れた声で答えた。
【了】
聞かれて、フユトは固まる。いつまでのことだったか判然としないが、何かあるたびに、不貞腐れて再三口にした問いだ。
素直じゃなくて可愛げはないし、目つきは悪いし、横柄だし、憎まれ口で応酬するし、寂しがり屋のくせに気紛れだし、なかなか甘えられないし。そんな自分の何処がいいのかと、何でこんな俺なんだと聞いた。選り取りみどりのお前なら、もっと他に探せるだろうに。
投げかけてきた問いを投げ返されるとは思わなかった。どきりとして固まって、ぎこちなく目を逸らす。
他人の命など虫螻以下のように感じているのだろう冷血漢がシギだ。古代帝国の暴君よろしく君臨し、平民を睥睨するようなカリスマ性を帯びる絶対悪。であるけれど、シギはフユトにだけは甘いのだ。
フユトの怯えも孤独も受け入れて包み込む優しさが。求めれば求めるだけ満たされる甘やかな時間が。甘い声が。甘い顔が。甘い匂いが。こちらから振り払わない限り命ごと腕を握られていることが。いつの間にかなくてはならないものになって、そのどれかが欠けてしまっては、フユトは今のように満たされることなどなくなるだろう。
「何処が、じゃない」
枕に埋もれる唇で、フユトはもそもそと呟く。
静かに名前を呼ぶ声が。喉で嗤う声が。達する前に少し低くなる声が。不意に睦言を囁く声が。
つまり、何処がじゃない。どれかじゃない。それら全てでシギなのだ。声も、顔も、匂いも、仕草も、癖も、指の形や長さも。何か一つでも違ったら、フユトがフユトじゃなくなるように、シギもシギでなくなる。フユトが欲するシギではなくなる。
「いい、とか、悪い、とかじゃなくて……」
声が震えた。再三、シギに問うてきたことの答えが、今、実感として目の前に横たわっている。
太い弦でも巻かれたように、肺と心臓がぎゅうぎゅうと引き絞られた。痛くて苦しくて、泣き出しそうなほど切なくて、ぎゅっと目を閉じるフユトの身体を、シギの腕が抱き寄せてくれる。思わず背中を向けたのは、顔から火が出そうな心地だったからだ。
「こっち向け」
「やだ」
「いい子だから愚図るな」
「やだ、見んな」
「フユト、」
蕩けそうなくらい甘い声で名を呼んで、シギの唇がフユトの左耳に触れた。外耳から狂いなく鼓膜に注ぎ込まれる猛毒に、フユトの心臓は切なく疼く。
こんなのは、知らない。こんな思いはしたことがない。呼吸と鼓動を押し潰さんとする大きな何かが、フユトの身体の奥深くから沸き上がり、微温湯のような温度の何かが空虚の痕から全身に回って、静かに、忍び寄るように、侵していく。
誰かに恋をしたことなんかなかった。誰かと付き合いたいと思ったこともなかった。募る欲望は金を払えば都合よく発散できたから淋しくなかったし、兄に抱いていたのは恋愛とはまた別次元の感情だった。
お前だから愛してる。
鼓膜を揺らした言葉を反芻する。
自分が自分で在ることへの歓喜と、同じ言葉をそっくりそのまま返してやりたい衝動で身震いして、
「こっち、向け」
忍耐強いシギの穏やかな声に、爆ぜてしまいそうだと思った。
きっと真っ赤になっているだろう顔を見られたくなくて、素早く身体を反転させ、シギの鎖骨の下に額を当てる。子どもを寝かしつける仕草で後ろ髪を梳かれながら、胸郭の内側で鼓動する、シギの心音に全集中する。
良いところも、悪いところも、可愛げがなくても、気紛れでも、寂しがり屋でも、だから、シギは愛してくれる。
そんなこと、あるだろうか。あっていいのだろうか。無条件に愛されることなんて、か弱い子どもだけの特権ではないのか。
「他所にいくなよ、フユト」
顔を寄せた胸元の肋骨の奥で、シギの声が響いて聞こえる。十五の歳に邂逅したときと変わらない、静かに、穏やかに、辛抱強く、説き伏せる声音だ。
ぎゅう、と額を押し付けて、
「……いくかよ、ばか……」
掠れた声で答えた。
【了】
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