Stray.-1

文字数 2,378文字

「お兄さん、一人ですか?」
 抑えてはいるけれど、女の黄色い声がする。浮き足立った声はときめきを隠そうとしているが、隠しきれていない。
 むっ、とフユトの眉間に皺が寄る。こういう顔をすると、周囲がさり気なく距離を取ることは知っている。元から目つきは悪いが強面ではない。全てはフユト自身の様々な噂と実績からの反応だ。
 初夏の深夜。都心にあるショットバー。
 ようやく一仕事終えたと恋人から連絡が来て、出先にいたフユトは珍しく飲みに誘った。どうせ同じ場所に帰るのだから顔を合わせることには変わりないのに、たまにこうして、二人きりの時間を外で過ごしたくなる。人目を気にしなくていい場所で絡み付いているばかりでは物足りない。何というか、気分だ。
 平日の深夜ということもあって、店内は二人の他に、三組がいる程度だった。
 女の二人連れが壁際の丸テーブルの立ち席に。男女一組はカウンターの止まり木の端に。学生と思しき六人の小グループが、店の奥に設置されたダーツ設備を占拠している。
 二人の入店と入れ替わるように、若さ故に少し騒々しかった小グループが退店したので、店内はようやくしんとした。控えめなジャズが、辛うじて聞こえる程度の音量で流されている。
 二人は付かず離れずの距離で、恐らく恋人同士だろう男女の組の反対側のカウンター席に座した。少しばかり年齢差のある同性の友人、といった風体で。
 一人で切り盛りしているマスターに飲み慣れた銘柄の有無を確認して、ダブルのロックで頼む。傍らの恋人も同じものを頼み、それを供された乾き物と一緒にちびちび舐めながら、取るに足らない話を交わして、小一時間ばかり経った頃だ。
 所用で席を外したフユトがものの五分ばかりで戻ってきた途端、
「お兄さん、一人ですか?」
 先の女の声が耳に届いた。
 さっき連れ立って入店したのをお前らも見ただろう、しらばっくれたように何を言ってる。
 思わず、眉間に力が入ってしまうことは否めない。
 しかも、こういう場所でのナンパ行為はマナー違反だ。男であれ女であれ、気になる相手にはマスターの口利きが必要なのだ。
 壁際の丸テーブル席からカウンター中央に場所を移した二人連れの女が揃って、フユトの恋人に声を掛けている。薄手の羽織りで腕の墨を隠しているからパッと見は一般人と変わりないが、ラスボスどころか裏ボスの風情漂う彼に声を掛けるなんて、度胸のある命知らずか、見た目に騙されて本質が見えない面食いくらいしかいない。
 どうせ俺は顔じゃねーよ、と変に卑屈になりながら、舌打ちを堪えてフユトが席に戻ろうとすると、
「その誘いは嬉しいが、今日は連れがいる」
 満更でもなさそうに見える横顔をしつつ、恋人が女からのナンパをやんわり断る姿に、フユトの中で何かが音を立てて千切れた。
 おもしろくない、と、顔でも雰囲気でも、フユトは隠さず物語る。
 不貞腐れた表情と態度で元の席に戻り、店を辞して部屋に戻ってからも、フユトの不機嫌は治まることを知らない。
「何をそんなに怒ってる」
 エレベーターホールと部屋を扉で隔ててしまってから、シギが聞いた。先に通路を行くフユトは相変わらずむすっとしたまま、蒸れ始めた昼間の熱気で汗ばむ身体を流したいとばかりに上衣を脱いで、シギを振り向きもしないまま、
「怒ってねーよ」
 怒りを隠さない口調で剣呑に答える。
 やれやれ、と言いたげな嘆息が聞こえた。
「それでその顔と態度か」
「うるせェな、小言垂れんな」
 脱いだ服は脱衣室に捨てて、呆れた様子のシギをじろりと睨んでから浴室に籠る。内側から鍵を掛けて必要以上の接近を拒み、熱めのシャワーを頭から浴びる。
 打たれながら、ぎり、と奥歯を噛んだ。
 女に勃たないとほざいておいて、満更でもないような顔をしやがって。席を一つ隔てたカウンターの端にはフユトの飲みかけのグラスだってあったのだから、もう少し表情も言い方もあっただろうが。
 つまり、これは、醜いばかりの嫉妬だ。
 自覚して、フユトの胸は苦しくなる。
 恋人同士だと公言して欲しいわけではないけれど、どうしたってシギの見た目は男ウケも女ウケもする。ハッテン場のような場所には積極的に行かないからわからないものの、そういう場所だったなら、シギはフユトのことを引き合いに出して誘いを断っただろうか。恋人が居るからと言ってくれただろうか。連れ、なんて曖昧な言葉じゃなくて。
 心臓がぎゅっとした。何だか泣きそうな気分だ。
 そのまま三十分ばかり掛けて、のろのろとシャワーを浴びた。その間、シギは心配して様子を見に来るどころか、気配さえ感じなかったから、眠る前のルーティンをいつも通りにこなしているのだろう。
 まだ寝ないのかと声を掛けることはしなかった。通路の突き当たりに見える明かりから、シギがそこにいることだけを確認して、真っ暗闇の寝室に向かう。濡れた髪のままでベッドに俯せにダイブする。
 浮かれているのは俺だけじゃないか。
 半同棲で毎日のように顔を合わせ、定期的にセックスして、たまに二人で出かけて。そういう風になる前も好きだったけれど、そういう風になってからは更に好きになったのに、結局、シギは何とも思っていないのだ。遊び相手よりは大事だが、本命ではない。そういうことだ。
「……少し退け」
 ダイブして、枕に頬を擦り寄せたまま不貞寝してしまったらしい。冷たい指に肩を叩かれて目を覚ます。素直に従いかけたところで眠る前のことを思い出して、寝返りを打った風に身動いだフユトは、シギに寝場所を渡すまいと横たわったままだ。
 大きな溜息が聞こえた。フユトが完全に眠っていると思い込んでいるのか、或いは起きたけれど従う意志がないことに呆れたのか。きっと後者だと思いつつ、寝室を出ていく気配は追わなかった。
 心臓が、刺し貫かれたように熱かった。
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