ナイトメアをあげる。-6

文字数 2,342文字

 それは、かつてフユトが負傷した件を指すのだろうか。シギが単身で乗り込んで報復した、スラムの酒場の一件だ。失血の多さから昏睡はしたものの、傷自体は深手ではなかったし、シギは明言しないから問いたださなかったけれど、失うかも知れないと実感したからこそ、こんなにも深く、強く、丁寧に、抱きしめてくれるようになったのだろうか。
 あのときの話を蒸し返してみたい衝動は飲み込むことにした。今はそれどころじゃない。
 最初から、仇もろとも死ぬつもりで依頼して来たのだとしたら、こんな話は引き受けるべきじゃなかった。誰にだって人には言いたくない、知られたくない過去の一つや二つはあるのだから、家庭があるのに不倫していた噂や、邪魔になった妻や娘の殺害依頼を誰かにしたのではないかという疑惑は、この際、脇に置いたっていい。
 フユトは更にぎゅっとシギの背中にしがみつき、
「……受けるなんて言わなきゃ良かった」
 肩口に寄せた唇で、ぼそぼそと後悔を吐き出す。
「本人が死にたいと言ってるだけで、他の依頼と違わないだろう」
 シギが苦笑しながら窘める言葉に、フユトはゆるゆると首を振る。
「死にたい人間殺したってつまんねェだろうが」
 生きたい人間が死に際して瞳に浮かべる恐怖と絶望の色こそ、フユトがハウンドであり続ける糧であり、興奮材料なのだ。死を願う人間を殺しても味わえない。
 深く嘆息するフユトに、
「お前らしい」
 シギが笑いながら答えた。
 フユトの気が乗らなくても、その日はやって来る。
 新しい年を迎えて二週間。都心でも朝から雪がちらつく日だった。
 深夜の押し込みに備えて仮眠しておこうと思うのに、目が冴えてしまって寝付けない。そんなときに限ってシギは仕事で留守だ。抱きついてしがみついてウダウダと不満を垂れ流したいのに、抱きついてしがみつける身体も、気持ちを聞いてくれる耳もなくては、どうしようもない。
 はぁ、と、何度目になるかわからない溜息を零す。落ち着きなく寝返りを打って仰向けになり、寝室の暗い天井を見上げた。
 死にたくない、と命乞いをする人間は容赦なく殺せるのに、死なせてくれと言う人間を殺す気にはなれない。死ぬなら勝手に首でも括れ、他人の手を使わなきゃ死ねないなら諦めろと言いたくなる。フユトの生は廃墟群で死んでいった不運な子どもたちの屍の上にあり、彼らが繋いでくれたからこそ、今を謳歌したいと思う。
 甘えるな。
 舌打ちをしたい気分だった。シギに意味もなく絡んで八つ当たりし、再起不能になるまで攻め抜かれたい。元少年を養子として引き取ったばかりに命を奪われる保護司夫妻のことなぞは気にも病まないが、遺族の男を殺してしまうかも知れない状況は徹底して避けたい。こんなに憂鬱な気分は初めてだ。
「……はぁ、」
 夕方を迎えてようやく、フユトはベッドを出て支度に取り掛かった。水道修理業者に見えるよう、工具箱に両口スパナやレンチなど、それっぽく見える工具を詰め込む。現場では修理のためでなく、撲殺用の凶器にするのだ。わざわざ中古で揃えたそれらを検めて、大きくて深い溜息をつく。シギが傍にいたら間違いなく、行きたくない、と泣き言を漏らしていた。
 気が重い。
「なぁ、お前、替わってくんね?」
 どうしようもなくなって、フユトはセイタに連絡した。疲れきったフユトの声と様子に慌てながら、しかし、セイタは別の仕事があるので無理だと断る。すんません、と心から申し訳なさそうな声に謝られ、冗談だから気にすんな、と軽口で返して通話を終えると、ソファに沈んだ。
「そろそろ出るんじゃなかったのか」
 午後七時。帰宅したシギが呆れたように声を掛けるから、ソファの背凭れに身体を預けて天井を見ていたフユトは、のろのろと振り向く。
「郊外の一軒家だろう」
 現場が遠いことを指摘するシギに、フユトは心から助けを求める顔をして、
「断っていい?」
 縋る。
「あのな、」
「だって無理、やりたくない、死ぬなら勝手に死ねばいいだろ」
 昼間に喚き散らしたかった言葉を並べてむずかるフユトに、シギは呆れを通り越した顔をする。相手がどんな人間だろうと表情一つ変えずに殺戮するお前にはわからない、と噛みつきそうになって、
「……仕事、嫌いになりそう」
 フユトは両手で顔を覆うと、深く深く項垂れた。
「共感できなくて悪いな」
 どうやらフユトにとっては悶絶するほど嫌なようだ、と見て取ったシギが、自身の共感性のなさを詫びてくる。彼の共感性の欠如は今に始まったことじゃないから、フユトは項垂れたまま首を振って、僅かに顔を上げ、シギを横目で見やると。
「……抱っこ……」
 退行を起こした口調で甘えた。
 そんなこんなで夜も更けた。
 シギにどうにか宥めすかされて気を取り直したフユトは、水道修理業者風の作業服を着てバンの助手席にいる。
 業者を装う車が横付けているのは現場となる一軒家近くの路上だった。街灯の乏しい住宅街は深夜となると真っ暗で、何処かで犬が吠えているのが聞こえるくらい静かだ。
 足元の工具箱の中には、スパナやハンマーといった鈍器と一緒に、ピッキングに使う道具も準備してきた。本来なら夜も浅い時間帯に訪問すべきところを、フユトが子どものように愚図ってしまったので、仕方なく予定を変えたのだ。
 ずっと目を閉じていたフユトが、すっと瞼を開ける。全身に纏うのは殺気というより、不穏な空気だ。荒事に慣れた人間特有の気迫。手順をシミュレーションし尽くして集中し、ぴんと張り詰めた緊張感を内包する。
 生きようと抗う人間を侮ってはならない。銃器を扱う場合はともかく、鈍器で殴りつける場合は特に。一発で昏倒させるか意識を混濁させられなければ、火事場の何とやらで反撃されてもおかしくないのだ。
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