骸-3
文字数 2,250文字
「仕事が一つなくなるかも知れねェから、安否くらい気にさせろって言ってんだよ」
痛すぎて言葉も選べないまま、フユトはどうにか言い切って、シギの判断に委ねた。肩の一つで済むなら温情だと言い聞かせて。
「……何も気にならないようにしてやろうか」
綺麗に微笑うシギが言って、体温がなくなったように感じた。仕事としてではあれど、彼女と関わりを持ってしまった頃から、シギの内実は不安定で、先日のことは発露のきっかけでしかなかったのだ。
取り敢えず、シギの矛は収まったと思っていただけに、フユトはますます何も考えられなくなっていく。
「脳死、で済む方法もある」
鼻先が触れ合う距離で、深淵の更に向こうの闇を湛えた瞳で、シギが言った。
息をするたび、肺が凍りついていく錯覚に、フユトはこつん、とシギの額に額を当てる。
「ごめん……」
目を伏せる。
「悪いとは思ってる」
最初は、面倒な女だと思っていた。手が掛かるし、誤解されたらフユトの身が危ないし、振り回されるのは疲れるだけだ。居なくなってくれればいいと思ったことだってある。けれど、彼女が八重歯を見せて笑うたび、何を言われても手を引かない強情さを見せるたび、目が離せないと思っていたのも事実だ。
「けど、そういうんじゃないんだって、本当に、心配なだけで──」
体の位置が僅かに変わったせいか、いつの間に、肩を掴む力が緩んでいる。骨を折られなかったことに安堵しつつ、
「あいつとどうにかなりたいとか、そんなん、思ったことねェから」
正直に告げた。
そこでどうにか折り合いをつけて欲しい。それがフユトの希望でもある。
誰とも関わらずに生きるなんて、どだい、無理な話なのだ。
或いはシギのように極端な線引きをしたら、彼は納得してくれるのだろうか。自分と例外を除く世界の全ては虫螻以下だと嘯いて、使い物になる臓器の数と値段だけで存在価値を図るような化け物になれば、同じだなと嗤ってくれるだろうか。
額を離す。伏せた目をゆっくり上げて、正面からシギを見る。与えられるのが罰なら仕方ない。シギが望む通りになろう。
思いがけず、シギの冷たい指先が唇を撫でた。陰鬱だった瞳が哀しげに揺れる。思いの丈を叫び続けているのに届かないと嘆き、失望して絶望し、やがて全てを諦めてしまった、嵐の夜の少年の面影が過ぎる。
「……そうじゃない」
やはりお前にも伝わらないのか。そんな声音でシギが言った。
「そういうことじゃない」
シギに求められていることがわからなくなって、フユトは唇を撫でられるまま、押し黙る。
「どうしてお前は」
抱き寄せられるに任せる。
「執着しない」
シギの言葉の意味をどう理解すればいいのか、咄嗟にはわからなかった。きっと、目を合わせていたら、虚を衝かれた自分の間抜け顔を見ることになっただろう。
かなり間を置いて、ようやく得心する。シギは、フユトが実兄に向けていたのと同等か、それ以上の執着が欲しいのだ。愛情も、憎悪も含む粘つく感情を押し付けられたいのではなく、お前なしには生きられないと追い縋る、無様な醜態を晒して欲しいのだ。
抱き寄せられたのを幸いと、自然と緩む口元を肩口に押し付ける。これでも充分、醜態を晒しているつもりなのに足りないなんて。
「……だってお前、」
笑って声が震えてしまわないよう注意しながら言葉を紡ぎ、シギの背中に腕を回す。少しだけ低い体温が心地良い。鼻を耳朶に寄せると、仄かに甘い匂いがする。目を細める。
「俺が欲しいモンは全部、くれるだろ」
フユトがシュントに向けていたのは恐れだ。ずっと一緒だと言って安心させておきながら、わかりやすい嘘をついて勝手に遠くへ行こうとする兄に見捨てられる、恐怖。だから力で支配しなければならないと思っていたし、どこにも行くなと全身で叫び続けていた。
けれど、シギは違う。
俺はお前だけを見ているから、お前も俺だけ見ていろと、安心をくれる。理不尽な手管で追い込むことはあっても、普段はその何倍も甘やかしてくれる。嘘と見破れない甘言でフユトの弱い部分を鷲掴んで、全て真実だと信じ込ませてくれる。それらに浸る安寧を手離したくないと思う気持ちを依存や執着と呼ばないなら、この男は何だと言うのだろう。
とっくに離れられなくなっているのに。
「お前が飽きるまで傍にいてやるよ」
生温い沼の底に沈められ、緩やかに窒息させられながら、意識が終わる刹那まで、ずっとシギを想っている。だってもう、他では無理だ。誰もフユトの飢えを満たせないし、ズブズブのドロドロに甘やかしてもくれない。
ぎゅうっと抱きついてみた。尊大な言い回しで照れ隠しをしても、傍にいて欲しいのはこちらのほうなのだと、細胞から溢れてしまう。
しがみつくような加減で抱き返された。僅かに背骨と肋骨が軋む、息苦しい束縛の強さで。
人を観察することで人間に擬態しようとする生き物だから、シギにフユトの機微の様々を理解することは、本当の意味では難しいかも知れない。ただ、シギに向けるそれは、シュントに向けていた依存や執着とは強さも濃度もベクトルが違うだけで、フユトが安穏と生きていける場所はシギに用意された箱庭以外になかった。
「……全部言わせんな」
首筋を甘噛みされる。通常の人の脳が持つリミッターを失ったシギの力なら、簡単に食い破れる急所を明け渡しつつ、抗議する。食い殺されるならそれでもいい。ここでしか生きていけないから、終わるのもここがいい。
だから、弱さも傲慢も、全てを許して欲しい。
痛すぎて言葉も選べないまま、フユトはどうにか言い切って、シギの判断に委ねた。肩の一つで済むなら温情だと言い聞かせて。
「……何も気にならないようにしてやろうか」
綺麗に微笑うシギが言って、体温がなくなったように感じた。仕事としてではあれど、彼女と関わりを持ってしまった頃から、シギの内実は不安定で、先日のことは発露のきっかけでしかなかったのだ。
取り敢えず、シギの矛は収まったと思っていただけに、フユトはますます何も考えられなくなっていく。
「脳死、で済む方法もある」
鼻先が触れ合う距離で、深淵の更に向こうの闇を湛えた瞳で、シギが言った。
息をするたび、肺が凍りついていく錯覚に、フユトはこつん、とシギの額に額を当てる。
「ごめん……」
目を伏せる。
「悪いとは思ってる」
最初は、面倒な女だと思っていた。手が掛かるし、誤解されたらフユトの身が危ないし、振り回されるのは疲れるだけだ。居なくなってくれればいいと思ったことだってある。けれど、彼女が八重歯を見せて笑うたび、何を言われても手を引かない強情さを見せるたび、目が離せないと思っていたのも事実だ。
「けど、そういうんじゃないんだって、本当に、心配なだけで──」
体の位置が僅かに変わったせいか、いつの間に、肩を掴む力が緩んでいる。骨を折られなかったことに安堵しつつ、
「あいつとどうにかなりたいとか、そんなん、思ったことねェから」
正直に告げた。
そこでどうにか折り合いをつけて欲しい。それがフユトの希望でもある。
誰とも関わらずに生きるなんて、どだい、無理な話なのだ。
或いはシギのように極端な線引きをしたら、彼は納得してくれるのだろうか。自分と例外を除く世界の全ては虫螻以下だと嘯いて、使い物になる臓器の数と値段だけで存在価値を図るような化け物になれば、同じだなと嗤ってくれるだろうか。
額を離す。伏せた目をゆっくり上げて、正面からシギを見る。与えられるのが罰なら仕方ない。シギが望む通りになろう。
思いがけず、シギの冷たい指先が唇を撫でた。陰鬱だった瞳が哀しげに揺れる。思いの丈を叫び続けているのに届かないと嘆き、失望して絶望し、やがて全てを諦めてしまった、嵐の夜の少年の面影が過ぎる。
「……そうじゃない」
やはりお前にも伝わらないのか。そんな声音でシギが言った。
「そういうことじゃない」
シギに求められていることがわからなくなって、フユトは唇を撫でられるまま、押し黙る。
「どうしてお前は」
抱き寄せられるに任せる。
「執着しない」
シギの言葉の意味をどう理解すればいいのか、咄嗟にはわからなかった。きっと、目を合わせていたら、虚を衝かれた自分の間抜け顔を見ることになっただろう。
かなり間を置いて、ようやく得心する。シギは、フユトが実兄に向けていたのと同等か、それ以上の執着が欲しいのだ。愛情も、憎悪も含む粘つく感情を押し付けられたいのではなく、お前なしには生きられないと追い縋る、無様な醜態を晒して欲しいのだ。
抱き寄せられたのを幸いと、自然と緩む口元を肩口に押し付ける。これでも充分、醜態を晒しているつもりなのに足りないなんて。
「……だってお前、」
笑って声が震えてしまわないよう注意しながら言葉を紡ぎ、シギの背中に腕を回す。少しだけ低い体温が心地良い。鼻を耳朶に寄せると、仄かに甘い匂いがする。目を細める。
「俺が欲しいモンは全部、くれるだろ」
フユトがシュントに向けていたのは恐れだ。ずっと一緒だと言って安心させておきながら、わかりやすい嘘をついて勝手に遠くへ行こうとする兄に見捨てられる、恐怖。だから力で支配しなければならないと思っていたし、どこにも行くなと全身で叫び続けていた。
けれど、シギは違う。
俺はお前だけを見ているから、お前も俺だけ見ていろと、安心をくれる。理不尽な手管で追い込むことはあっても、普段はその何倍も甘やかしてくれる。嘘と見破れない甘言でフユトの弱い部分を鷲掴んで、全て真実だと信じ込ませてくれる。それらに浸る安寧を手離したくないと思う気持ちを依存や執着と呼ばないなら、この男は何だと言うのだろう。
とっくに離れられなくなっているのに。
「お前が飽きるまで傍にいてやるよ」
生温い沼の底に沈められ、緩やかに窒息させられながら、意識が終わる刹那まで、ずっとシギを想っている。だってもう、他では無理だ。誰もフユトの飢えを満たせないし、ズブズブのドロドロに甘やかしてもくれない。
ぎゅうっと抱きついてみた。尊大な言い回しで照れ隠しをしても、傍にいて欲しいのはこちらのほうなのだと、細胞から溢れてしまう。
しがみつくような加減で抱き返された。僅かに背骨と肋骨が軋む、息苦しい束縛の強さで。
人を観察することで人間に擬態しようとする生き物だから、シギにフユトの機微の様々を理解することは、本当の意味では難しいかも知れない。ただ、シギに向けるそれは、シュントに向けていた依存や執着とは強さも濃度もベクトルが違うだけで、フユトが安穏と生きていける場所はシギに用意された箱庭以外になかった。
「……全部言わせんな」
首筋を甘噛みされる。通常の人の脳が持つリミッターを失ったシギの力なら、簡単に食い破れる急所を明け渡しつつ、抗議する。食い殺されるならそれでもいい。ここでしか生きていけないから、終わるのもここがいい。
だから、弱さも傲慢も、全てを許して欲しい。
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