muzzle-2

文字数 2,564文字

 あの侮辱の言葉を吐いた人間も、せせら笑った取り巻きも、耳にした衆人も全て、生かしてはおかない。
 物語るフユトの瞳に、誰もが凍りつき、動けなくなった瞬間を待っていたかのように、バーの入り口のベルが鳴り、新たな来店を告げる。殺気立つフユトの凶悪な視線と、店内にいた人々の助けを求める視線が一斉にそちらを向く中、新たな来店者は愉しげに右の口角を上げ、夜より昏い瞳を意味深に細めた。
「随分と愉しんでるな、フユト」
 半地下に位置する会員制バーの経営者の姿に、衆人は更に身を竦め、取り巻きは僅かに安堵し、フユトはより凶暴性を増した視線を向ける。
「邪魔すんな」
 強気に啖呵を切って立ち上がり、頭から血を流す男の身体を雑に蹴りつけると、恐れ知らずにも化け物と呼ばれる支配者へと踏み出して、
「こいつらじゃなく俺と遊べ」
 殴りかかった拳を正面から止められ、勢いを活かした流れる動きで利き腕を背後へと捻り上げられる。加減のない力を掛けられつつ、それでも殺気を削がないフユトが抵抗しようと身を捩る気配を見せた瞬間、呼吸が詰まる衝撃を伴い、バーの壁に身体の正面から叩きつけられる。利き腕は押さえられているから、手をついて和らげることもできなかった。
 俺と遊べ、と宣っただけはある。フユトの背中に体重をかけて動きを封じたまま、利き腕をへし折るタイミングだけを伺うようなシギは涼しい顔だ。
 しかし、それでもフユトは屈しなかった。肋骨ごと肺が圧迫されるのも構わず、背後のシギを振り向いて何事かを吠えようと唇を開いた瞬間、声は言葉ではなく、苦鳴を吐いた。
「肩を外したくらいで呻くな」
 そう言うシギの口元は笑っている。二人の攻防を見守る周囲が怖気を催すほどに、光を帯びているはずの瞳だけが昏い。
「ふ、ざけ……ッ」
 ゴキリ、と、嫌な音がした。脱臼の痛みに耐えながら、それでも反抗的な態度を崩さないフユトの何処かが、またも外される音だった。
「俺の許可なく殺すなと言ったな」
 愉しげな顔に反して、シギの声は寒気を覚えるほど低い。
 二箇所目の脱臼の痛みに声もないフユトの耳元で、
「顔の生皮、剥いでやろうか」
 ほとんど吐息のシギの声が囁いた。
 観念したフユトから、ようやく殺気が消える。フユトの状態を慎重に見極めたシギが身体を離すと、押さえられていた利き腕が力なく落ちた。
「取り敢えず、そこに転がってる奴はすぐに運べ、話はあとだ」
 冷徹な総帥の声に、見守るだけだった関係者がバタバタと動き出す。
 見るからに重傷の男が運び出され、蒼白になった少年バーテンが無関係な野次馬を帰らせ、店内の清掃が一段落したのは、本来のクローズを二時間ばかり過ぎた深夜のことだった。
 外された関節を嵌め直されたあと、フユトはおとなしく、ソファ席に座って項垂れたままだ。何も言いたくないし何も言われたくない、駄々っ子のような拒絶オーラを放っている。
「それで?」
 カウンターに寄りかかるシギが少年に尋ねる。こうなったらフユトは意地でも口を割らないので、外野に聞く他ないと知っているのだ。
「フユトさんの近くにいた四人組が、かなり酷いことを言っていて──」
 困った様子のアゲハが詳細をかい摘み、それでも的確に説明すると、シギは明らかに嘆息とわかる溜息をつく。
「……なるほど」
 遠く、そんなやり取りを聞きながら、フユトは床を睨み続ける。骨が折れるよりはマシだとしても、関節が外れる痛みで強制的に戦意を削がれ、出口を失った衝動に唇を噛み、他人を拒絶し続ける。
 何も知らないくせに、好き勝手なことをほざきやがって。シュントの覚悟も苦しみも知らないくせに、多淫だ雌犬だと言いやがって。
 歯軋りしそうなほどに奥歯を噛み締めていると、不意に差して視界を暗くする人影に、びく、と身体が竦んだ。
「俺が言いたいことはわかるな」
 項垂れるフユトを見下ろすシギの声が降ってくる。そこには何の感情も伴っていない。抑揚に乏しい言葉を聞いて、頷くことも、首を振ることもせずにいると、
「わからないなら身体に聞こうか?」
 淡々としたシギの声が降ってきて、つい数ヶ月前、吐くまで繰り返された拷問を思い出してしまった。
 雁字搦めに拘束されて放置された挙句、後ろをクスコで強制的に開かされて、粘膜を擽られたり乱暴に突き上げられたりした、苦しいだけの時間。吐くものが胃液だけになり、食道を灼く酸っぱい後味に涎を垂れ流しながら終わりを願い、仕事以外では手駒を勝手に殺さないと誓わされた、とびきり長いだけの一日を。
 挿入の圧迫感さえ苦痛しか感じないのに、あれはとんでもない地獄だった。粘膜が乾いていく恐怖も、そこを剥き出しにされたままの絶望も、嬲る指先や道具の感触も、思い出しただけで未だに鳥肌が立つというのに、シギはまた、あれくらいの折檻をするのだろうか。
 だって、あれはあいつらが悪い。そう言おうと見上げた先にあるのは、シギの無表情だ。哀れみも、同情も、嫉妬も、執着も、何も伺えない無の顔。言葉が引っ込んで、思考も止まって、フユトはただ、飼い主を仰ぐ形になる。不出来な狗は始末されるのかも知れない、と片隅で思って、目を伏せた。
 だってあれは、あいつらが悪い。シュントにあんなことをさせて生きてきてしまった俺が悪い。割り切れない俺が悪い。傷つけるだけ傷つけてわかり合えなかった俺が悪い。
 殺して欲しい。
 フユトは再び項垂れて、シギの言葉を存在ごと拒絶するように、微かに首を振った。
「……知るかよ」
 声を絞り出すと、シギの溜息が降ってくる。
 身体なんか好きにすればいい。どうせ勝てるわけがないのだし。
 シュントは好きだ。唯一の肉親として。今はそれ以上でも以下でもない。シュントを喪いたくなかったのは、孤独が怖かったからだ。死なないように怯えた夜の底で待ち続けた兄は、兄なりの幸せを見出して、傷つけてばかりのフユトの傍らに寄り添ってくれないのではないかと思っていた。置き去りにされたくなくて、見限られたくなくて、しがみついていたかったのだ。
 今は傍らにシギがいる。お前だけが全てだと嘯いて。だけど、弱くて醜いフユトの本性に接するたび、シギもまた、兄のように離れていくのではないかと怖かった。だから、全ては明け渡したくないと拒んでいる。拒み続けている。
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