夜鴉-4

文字数 2,565文字

 いつだったか、遠い昔、友人同然の付き合いになった娼婦が、口淫は擬似性交だと言って研鑽していたけれど、今なら納得できた。体温を持つ粘膜で刺激すればするだけ、相手が昂り、吐精に向かっているであろう変化や表情を観察するのは、本番中と変わらない。挿入される側が擬似的に挿入する側を体感できるところも、確かに的確な表現だと、する側に回って思う。
 普段は表情の変化に乏しく、人々の上に立つ者としての余裕を損なわないシギからほんの少し、余裕を奪ってやりたい。僅かに眉を寄せるだけでも構わないから、感じ入った顔を見せて欲しい。
 口内を真空にして存分に唾液を纏わせる。啜りながら頭を前後して、舌に絡まる先走りの味に、シギもいよいよ感じ始めたのだと実感する。
 更に煽り立てようとしたところで髪を掴まれた。食道まで犯さんとした屹立が瞬間的に奥を突いて、すぐに出ていく。
「酷い顔だな」
 顎を撫でる指を受け入れながら顔を仰向けると、壮絶な色欲を孕んだシギが嘲笑した。言われるまでもなく、きっと目元は蕩けているし、緩んだ口元は唾液まみれだ。自他ともに認める、物欲しそうな顔をしているんだろうと思う。
「立てるか」
 差し出された腕に掴まって立ち上がると、シャンプーだかボディソープだかを取ったシギの手が、兜合わせになった下腹に伸びる。程よい加減で扱き立てる手に手を重ねて、裏筋同士を擦り合わせるように腰を揺らしながら、目の前の薄い唇に噛み付いた。
 一度は逸らされた欲求が、じわじわと高まって脳みそを炙る。シギよりは早いと自覚しているから、言われていないのに二度も予兆を堪え、三度目は我慢が効かなかった。
 本番をする際は押し殺す声を解放する。程なく、シギの重たい吐息が肌を滑り、腹にぶつかって滴る迸りを感じる。
 シギが絶頂する瞬間も好きだ。あの冷血漢が熱を帯びる刹那を独占できるから。
 息が落ち着くのを待って泡を流し、シギが先に出た浴室で、浴槽に浸かる。冷めてきた湯船は微温湯で、さすがに風邪をひきそうだと思いながら、まとわりつくような倦怠に身を任せた。
 それでも、二人は恋人なんかじゃない。少なくとも、フユトはそう思っている。
 夕暮れが近づく街中のコーヒースタンドでホットのブラックを買って、近くの広場のベンチに座るミコトの横に腰掛けた。
 先日の一件もあって、ミコトの服装はおとなしくなっている。前から露出が多いほうではなかったものの、今はタイトなものや薄手のトップスを避け、ローゲージのニットでボディラインを隠そうとしている。ミニのボトムもやめて、足元はタイトなスキニーデニムだ。
「寒くなってきたね」
 夕方になると、風は冷たくなる日が増えていた。しとしととそぼ降る雨の季節が終わり、秋が深まっている。
「何だよ、人恋しいのか」
 人肌で触れ合う仕事をしているのに意外だと声を掛ければ、
「おにーさんは相手がいるからいいけど、あたしは家で一人なの」
 彼女はやはり、子供っぽく膨れっ面をする。
 このやり取りも慣れてきたなと思いつつ、珈琲に口を付けた。アメリカンを頼んだわけではなかったものの、サラサラした薄味は好みじゃない。
 フユトが僅かに眉を寄せたのを見たのか、彼女がついと袖を引くので、何とはなしにそちらを見る。
「ね、ここ、ついてる」
 囁くような声音で言って、ミコトがすらりとした首元を指した。鎖骨近くのそこに何があるのかと訝しんだのは一瞬で、心当たりに思わずたじろぐ。あの野郎、と内心で恨みかけた瞬間、彼女がケラケラと笑うから、揶揄かわれたのだと気づいた。
「……お前な……」
 シギなら絶対に、見える位置に所有痕なんか残さない。お前を俺のものにするから墨を入れろと言うことがあったなら、シギが指定するのは彼しか見ないところだろう。つまり、内腿や鼠径部。
 歳下に揶揄かわれた事実にも赤くなりつつ、彼女はこういう性格なのだと、怒りだけは飲み下した。お陰で短気が治りそうだ。
「おにーさんの恋人は優しい……?」
 一頻り笑ったあと、彼女は寂しそうに、ぽつんと尋ねる。
「お前の恋人は優しくねーのかよ」
 尋ね返すことで肯定としつつ、フユトが彼女の様子を伺うと、
「あたしみたいなのと付き合ってくれてるんだから、優しいのかな」
 寂しげな横顔で俯いて、彼女は自信なさげに呟いた。
「顔にもスタイルにも自信ありそうなくせに、そこは煮え切らねェのな」
 薄味の珈琲を啜りながら、フユトが言うと、
「あたしが一番じゃないからね」
 八割方はミルクじゃないのかというほど、ミルクたっぷりのラテを飲んで、彼女はそれでも苦そうな顔をする。
「……そういうの、入れ込む前にやめとけよ」
 実母が見舞われた不幸は、仇敵であるはずのシギから掻い摘んで聞いている。客の袖を引くことで生きるしかない娼婦や男娼が陥る、幸福に見せかけた不幸の入口だ。連中は金に物を言わせて愛人を囲う。中には臓器売買に必要なカモとして健康を約束した挙句、頃合いを見計らって

するような確信犯もいる。
 悪どい手合いを知っているからこその忠告に、
「無理だよ」
 彼女は言って、自嘲した。
「もう遅いもん」
 男と違って、女は情の生き物だ。体を繋げたら最後、相手に情を持つ。引き返せない泥沼に進んでしまった以上、彼女が欲しいのは正論ではなく、温かい肯定と新たな庇護なのだ。
「何かある前に電話しろよ」
 だから、フユトは言った。
 廃墟群で生き抜く日々の中で見た、内臓を盗られて鴉の餌になるだけの死体の数々。
 彼女はそんな一人にしたくないし、させないのが今の仕事だ。
「おにーさんが付き合ってくれるのが一番いいのに」
 何かを吹っ切るように彼女が言って、
「好みじゃねェし、その気もねェよ」
 げんなり答えるフユトを笑う。
「あたしは割と好きなんだけどなぁ」
 ミルクたっぷりのラテを飲んで、それでもまだ苦そうな顔をする、子どものような味覚の彼女は、
「あたし、顔で人を好きにならないの」
 どうとでも取れる問題発言をして、爛漫に笑った。
「悪かったな」
 次の日、彼女が行方を晦ますと知っていたら、フユトは悪態を付かなかっただろうと思う。
「俺は身長と体格だけだって散々言われてきたんだよ」
 口さがない娼婦たちの軽口なんて、彼女に言わなかっただろうと思う。
 夜陰で鴉が啼いた。

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