Gemini-3

文字数 2,391文字

 端末の震動で目を覚ます。二日酔いのような吐き気と頭痛に呻きつつ、手探りしたそれを掴んで画面も見ずに応答する。
「……だれ」
 掠れた声で誰何すると、フユトの鼓膜を震わせたのは、感情を伴わない声だった。フユトを散々、蕩けるほどに甘やかしてきた飼い主だった。
 すぐに来い、と声は宣った。抑揚に乏しい平坦な声ではあったけれど、そこには有無を言わせぬ強さがあるし、尊大さが垣間見える。同業者に恐れられるフユトを震え上がらせてきた、ぞっとするようなシギの冷たい目を思い出す。
 けれど。
「……お前のことなんか知るか」
 フユトはフユトで不機嫌に返し、一方的に通話を切った。
 もういいんだ。もういい。何も考えたくない。シュントのことも、シギのことも、自分の行く末も、どうだっていい。どうなったっていい。だって、もう戻れない。何処にも行けない。フユトは孤独な夜に立ち戻って、もう一度、自分を殺しに来るかも知れない気配に怯えなければならない。夜は明けない。永久に明けない。
 ベッドの上で胎児のように丸まって、身体を苛む疼痛をやり過ごす。
 バラバラに砕けてしまえたら良かった。そうしたら、もう何もかも感じずに済むのに。
 眠気が再びやって来ることはなく、長い時間をベッドの上で丸まったまま過ごした。その間、何度か端末が着信を告げたけれど、フユトは決して手を伸ばさなかったし、誰からの連絡か確認することもなかった。
 夕方になる頃には、部屋も身体もすっかり冷えきっていた。設定温度は二十度を下回っているのだから当然だろう。昨晩の影響と冷房による倦怠を抱えてベッドを出たフユトは手早くシャワーを浴びると、例のナイトクラブへ足を向ける。
 時間と空虚を忘れさせてくれるなら、刺激は何だって良かった。どうせなら、後悔がより強く残るもののほうがいい。あんな相手と寝るんじゃなかった、粗悪品のドラッグなぞキメるんじゃなかった。そうやって、フユトを貶めてくれるものがいい。
 夏の日照時間は長い。午後七時を回っても、外には薄暮の気配すらない。深夜に賑わいを迎えるクラブのオープンまでは一時間近くある。何処ぞで暇を潰そうかとぼんやり思いながら、人出の少ない繁華街を彷徨く。
 シーシャ専門店、合法を謳うカンナビジオール含有雑貨の店、タトゥーショップ、古式マッサージに偽装した違法風俗店。
 スタンダードから大衆店が犇めくエリアの店構えは、高級から中級の店が並ぶエリアと違って、途端に如何わしくなる。黒ではないが、限りなく黒に近いグレーゾーンというのは、ある一定の客層にウケるのだ。スリルや背徳を味わいたいけれども、危険はなるべく冒したくないと安牌を求める人々は、あらゆる層に一定の割合で膾炙している。価格帯が安ければ安いほど危険も多い、というのも彼らの好奇心を焚き付けるミソであるがゆえに、怖いもの見たさの人々で夜な夜な繁盛していることが多い。
 そんなエリアにあるハッテン場だからこそ油断していたと言うべきだろうか。
 夜の浅瀬は何処もこんなもんか、と、人も疎らな繁華街に視線を巡らせていたフユトは、オープンまでクラブの入り口付近で時間を潰すことにして、元来た道を戻った。興味を惹かれる店があれば良かったのだけれど、違法マッサージ店の個室で女を相手に本番する気はさらさらなかったし、合法であれ違法であれ、ケシの実や葉っぱでトリップしたいとは思わない。トぶなら合成麻薬くらいの強烈なヤツをポンプで喰らうくらいはしたいし、そんなものをキメたら本当に勃たないまま終わってしまう。
 人の腹を滅多刺しにするときと同じ興奮は、やはり、仕事でしか満たせないのかも知れないと思いながらクラブの入り口を見やり、足を止める。
 今の今まで肝心なことを忘れていた。フユトの飼い主は数多の目と耳を持つ化け物で、フユトの熱烈なストーカーなのだった。
 正面から目が合ってしまっては、逃げ出そうにも逃げ出せない。きっともう、フユトが昨晩、此処で何をしていたかも知っている。
「逃げ回りやがって」
 墨を露わにした腕組みを解き、凭れていた壁から背を浮かせ、シギが舌打ちしそうな面持ちで近づいてくる。初っ端から口調が荒いので、もしかしなくとも怒髪天を衝いているのだろう。
 叱られた子ども宜しく俯くフユトは顔を上げられない。背を向けることもできない。
「来い」
 端的な命令に身体が竦む。フユトが動けず、また何も言えずにいると、シギがフユトの腕を強引に掴んで引っ張るから、その力強さには従う他ない。
 男同士も女同士も問わない界隈だから、周囲には痴話喧嘩のように見えているだろうか。疎らとはいえ人通りはゼロじゃない。通りすがりの彼らが二人をどう思っているのかと考えるだけで、シギの手を振り払いたくなる。
()、って……」
 背中を壁に叩きつけられたのは、繁華街の中心から僅かに外れた路地裏だった。コンクリートが背骨を打つ衝撃に、フユトは小さく呻いただけで、正面に立つシギの顔は相変わらず見ていない。
 顔のすぐ横にシギの右手が突き立つ。俯いて目を伏せたまま息を飲む。
「この三日、何から逃げ回ってる」
 フユトは答えない。
「何度も無視しやがって、どういうつもりだ」
 怒気を孕むシギの声に、そういうことだ、と明言はできなかった。
 こうなったのはお前のせいじゃないか。俺の留守中に勝手にシュントを呼んで、話をしていただけだなんて言い訳が通じるとでも思っているのか。シギはシュントの元顧客で、シュントの想い人でもあったのだ。フユトなんかより何倍も素直で可愛げのあるシュントが目の前に現れたら、意固地で皮肉屋で可愛くないフユトなんて霞んでしまうに決まっている。だから場を読んで部屋を出たのに、こちらから願い下げだと言うように連絡だって無視していたのに、そんな言い方はない。
 言いたい言葉は全て飲み込む。
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