Pain-2

文字数 2,325文字

 ガーゼを口内に詰め込まれてタオルの轡を噛まされる。抵抗すれば確実に腕を折られるか膝の皿を撃たれるかするので、悪足掻きはやめた。
 指先が冷たい。生命維持に関わる恐怖に竦んでいるせいで、全身が固く強ばり、血流が悪くなっている。
 シギが何かを準備するのに傍を離れた隙を狙って、気を落ち着けようと深く呼吸してみた。自由な両手で轡を外すこともできたものの、そのあとを考えるとぞっとしない。最悪なのは麻酔なしで歯を抜かれることだ。抜かれる痛みよりも抜かれたあとを考えると、大人しくしておくに限る。
「……いいこだな」
 戻ってきたシギが優しい声で囁いた。いつもの調子に戻ったかと思ったものの、瞳は相変わらず冷たいままだ。
 その褒め方はやめて欲しい。耳に馴染んだ口調はフユトの体温をじわりと上げる。
 帯のような幅広の布で視界を塞がれた。後頭部できゅっと結ばれる瞬間の僅かな圧迫に、鼻から声が抜けた。陶酔していると勘違いされては困ると、慌てて首を振る。
 言葉を奪われ、視界を奪われた。シギの冷酷な瞳が見えなくなったのは幸いでも、挙動までわからなくなるのは怖い。
 ハイエナの仕事のときのように、メスの切っ先が耳下に食い込むかも知れない。顔の皮膚をゆっくり剥がして角膜を盗る、解体の第一段階だ。
 或いは、ペンチで爪を剥がされる。若しくは、金鑢で肉を削られる。
 あらゆる拷問のパターンを想像するだけで、腹の底から冷えていく気がした。だから、シギの指が腕に絡まった瞬間、恐慌に陥りそうになる。
 瞬間的に呼吸が乱れたのを察して、そっと髪を梳くくらいなら、最初からしなければいいのに。思いはすれども言葉は塞がれている。
 背中に膝を載せられて体重を掛けられ、ソファの座面に上体を倒す。背中に当てたままの膝でシギの位置と存在を知らせながら、両腕を取られて背中で組まされる。するりと巻き付くのは麻縄だろうか。縄師の知り合いがいると聞いたことはあるものの、拘束に使う本格的なものを持っているとは思わなかった。
 口内のガーゼが唾液を吸うから、粘膜が少しずつ乾いてきた。窒息が怖くて舌をまともに動かせない。
「いいこにしてろ」
 シギがフユトに施したのはそれだけだった。顎と喉の境界をするりと撫でて、たったそれだけを言い置いて出ていく。
 セックスドラッグを飲まされるとか、後孔用の玩具を突っ込まれるとか、放置耐久系の仕置きは様々なのに、シギはどれも選ばなかった。ほっとする反面、これはこれで末恐ろしい気がする。
 フユトの予感は当たった。
 何もされていないぶん、刺激がないから意識が逸らせない。シギが戻ってくるのかもわからない。視界がないから時間の感覚はないし、座面から落ちるのが怖くて身動きも取れない。
 暗く、長いだけの、無為な時間。
 似ている、と思った。
 生きていくために体を売る兄が出て行ったあと、物音に怯えて過ごした、永劫に続くような夜と似ている。
 廃墟の片隅で膝を抱えて座ったまま眠る。人の声や足音で目を覚ます。すぐ近くの気配を、息を殺してやり過ごす。口元を両手で塞ぎ、できるだけ呼吸を止める。
 子どもの臓器は高く売れるから、廃墟群の少年少女らはハイエナの恰好の餌食だ。夜になると群れで動く彼らに殺され、見知った姿が鴉に突つかれているところを、何度も見た。
 どんなに寒い夜でも、子どもたちは火を焚かない。それは群れる獣に居場所を知らせる自殺行為だと知っているからだ。
 朝が来ることは知っていても、永遠に明けない気がしていた。束の間、とろとろと眠ると、足音が聞こえた気がして目を覚ます。人の声がしたような気がして息を殺す。それらを繰り返す長い夜は永遠に明けない。
 気が遠くなるような長い時間を経て、ようやく朝を迎えても、兄とは永遠に会えない気がした。そう覚悟して生きてきた。
 遠くで扉が開く微かな物音で目が覚める。視界が真っ暗なために、体が防御反応で固く強ばる。息を殺す。近づく気配に神経を研ぎ澄ませ、彼らに存在が見つからないことだけを祈る。気づかれたら終わりだ、生きたまま顔の皮を剥がされて眼球を抉られ、喉から下腹まで切り裂かれて痙攣しながら死ぬ。死んだら温かい臓器を盗られて捨て置かれ、亡骸は鴉の餌になる──。
 ほんのり冷たい指が、背中で組まされた腕に触れた瞬間、
「……っ、」
 びくんと大袈裟なくらい体が跳ねた。息ができない。
「フユト、」
 すぐに轡を緩めた指が、口内のガーゼを素早く取り去る。
 宥めるように呼ばれた名前が誰なのか、声の持ち主が誰なのか、すぐには理解できなかった。一拍遅れて、声の主がシギであること、自分の名前が呼ばれたことを理解しつつ、それでも乱れた呼吸は戻らない。
「いいこだから、落ち着け」
 ひゅう、と喉が鳴る。視界を塞ぐ布が外され、視野が白く染まっても、殺されることに怯えた体は戻らない。
 死ぬ。あいつらのように死んでいく。路傍や廃墟、路地裏に置き去られた死体の数々と同じように、空蝉になって鴉に喰われる。
「悪かった」
 真っ白だった視界に人影が見えた。どこかで見た顔だった。青黒い髪と、腕に彫られた精緻な大蛇。いつも右側の口角を上げて嗤う、絶対的で脆弱な飼い主。
 抱き竦められていると理解してようやく、過呼吸は落ち着き始めた。
 ここはもう廃墟群じゃない。ハイエナに殺される夜は来ない。長い夜は明けた。随分前に明けた。
「……ぁ、」
 どれだけ緊張を強いられていたのか知れないが、現実を取り戻して認識した途端、また視界が暗くなる。音もなく意識が落ちた。
 冷たいタオルが額に触れた。薄く目を開けると、ベッドの縁に座って様子を見ていたらしいシギが、安堵したように表情を緩めた。
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