贄-1
文字数 2,269文字
神殿に眠る何かには捧げ物が必要だと言う。
その何かを人は時に神と呼び、時に、神の姿をした魔物と呼ぶ。
宗教や文化や人種の違いで、そういうものは様々な姿かたちをしているのだろうけれど、いずれも想像上の存在であって、実体を持つものは少なかったに違いない。
フユトの傍らで息をするのは、きっと、数少ない実体のほうだ。人々が悪魔や魔物と呼ぶ、抗いようのない厄災の権化。
中性的な顔立ちは傍目に綺麗だし、単に遠くを見ているだけの背中なら儚げにも見える。なるほど、それは神の御名において遣わされた聖霊のようではあるけれど、闇を纏うような黒づくめの出で立ちと、作為を映す右の頬のみに浮かぶ笑みは、さながら攻略難度の高いラスボスである。聖なるものと悪なるものを──しかもどちらも純度が高い──持ち合わせているから、こいつは誰にも踏破できない極みで人々を睥睨する神のように、至高として畏怖され、邪悪として恐怖される。
「……さて、」
至高であり、邪悪なる者が綺麗に嗤った。今、こんなときでなければ、誰もが見惚れるような、完璧な笑みだった。
普段、右の口角を持ち上げる程度の雑な作り笑顔しか知らない連中は、これが綺麗に嗤う瞬間の危険性を知らない。知らなくとも、何だかすごく不味いことになったと気づき、慌てるような勘があったら、猟犬なのに狩られることもないが。
「損失は身をもって償え、莫迦ども」
嗚呼、愉しそうだ。
恍惚を伴って響く声にフユトは思って、小型機関銃が乱射される音を柱の陰で聴きながら、逃げ出した残党を屠るために、刃渡り二十センチのナイフの柄を握り直した。
まだこうして、原型を留めて死ねるならいい。あの悪魔は生きた人間を破砕機にかけ、木っ端微塵にして魚の餌にしたり、廃車を潰すための圧力機でプレスした上で、薬品で溶かして海に流したり、実際の悪行と噂には暇がない。
フユトがその目で見たのは、小型プールほどの大きさと深さがある濃硫酸の水槽に生きたまま沈められそうになった、哀れな木偶の坊くらいではあったが。
血糊を払う。壁に、床に、点々と散る飛沫を見る。
戦前は工廠だったという廃墟へと半刻ばかり前に集められた十数名は殲滅され、射殺体や斬殺体となり果て、あちこちに転がっている。
ハウンドとして月に数人を殺すフユトが時たま駆り出される、大規模な粛清の現場はいつだって凄惨だ。それでも、死体を見慣れたフユトが眉を寄せることはなかったけれど。
「何したんだよ、連中」
死因も定かではない骸をぞんざいに顎で示して、フユトはシギに問う。
「大事な顧客の暗殺依頼を相談もなしに引き受けたのが三人、依頼案件の成功率が八割を切る能無しが半分以上、あとは素行不良だ」
殺されるような不始末をしたのは三人だけだったのに、その他大勢を巻き込んで組織内の手駒を調整するところも、この男が魔物たる所以なのだろう。表の仕事の兼ね合いで現場にはほとんど出ないから、腕試しや勘を取り戻す作業の一環もあるのかも知れない。
「……一歩間違えば俺も死んでたってわけね」
同業殺しについて、あることないことを噂にされるフユトが苦虫を噛んだように呟くと、
「お前の命は最初から俺が握ってる、安心しろ」
本来なら安心できるはずもないことを、シギがしれっと答えた。
まぁ、ここまでどうにかこうにか生き延びているのだから、化け物に愛されるのも悪くはない。
思いながら、フユトがナイフを仕舞うと、シギの左手が不意に視界に映って、反射的に半歩下がりかける。咄嗟の防御反応を嘲笑うように、フユトの鼻筋から頬にかけて飛んだ血痕を指の腹で拭った化け物は、そのまま顎を掬う形で固定して、
「久しぶりにしけ込むか」
ぞくぞくするほど獰猛な笑みを至近距離まで近づけて、囁くように誘う。
「……お前さ、恋人相手にすんなら場所は選べよ」
廃墟群にほど近いモーテルを何件か思い浮かべながら、満更でもなくフユトは答える。あそこは壁紙に得体の知れない染みがあるし、あっちはマットレスも布団も湿っぽくて嫌なんだよな、という具合に。
ふ、とシギが笑う。フユトだけに見せる、蕩けそうに甘い笑みがそこにある。
「お前からそれが聞けるとは思わなかった」
恋人、なんて口走ってしまった事実を恥じらい、目を逸らしたフユトに、
「それもそうだな」
答えながら、シギが喉笛に軽く歯を立てた。
こんな安っぽい個室にしけ込むのは、いつ以来だろう。
部屋のランクや設備にこだわりはなくとも、せめて黴や埃臭くないところと思ってしまうのは、普段に慣れてしまったせいなのかも知れない。
あの頃は雨風が凌げて夜露に濡れなければ、例え荒屋だとしても屋根と壁さえあれば満足できたのに、随分と我儘になってしまった。最愛だった兄と二人、たった一晩でも身を寄せ合って眠れることが、フユトの至上の幸福だったのに。
無知である以上の贅沢はないのかも知れない。肌に触れるシーツや枕、果ては浴室の壁や床の質感まで、普段と何かが僅かに違うだけで、途端に集中できなくなる。この壁はベニヤのように薄くないだろうか。外に接する浴室の向こうで押し殺せない啜り泣きを盗み聞かれないだろうか。二人の密室は維持できているのだろうか。
「痛 って……」
力み過ぎていたのか、長らく感じなかった鋭痛に呻く。浅く捩じ込まれた質量が出ていって、引き裂かれることに慄く本能が緩み、フユトは大きく吐息する。
「ぎこちないな」
焦るでも苛立つでもなく、ましてや処女でもないくせにと煽るでもなく、シギの手が静かに背中を滑る。
その何かを人は時に神と呼び、時に、神の姿をした魔物と呼ぶ。
宗教や文化や人種の違いで、そういうものは様々な姿かたちをしているのだろうけれど、いずれも想像上の存在であって、実体を持つものは少なかったに違いない。
フユトの傍らで息をするのは、きっと、数少ない実体のほうだ。人々が悪魔や魔物と呼ぶ、抗いようのない厄災の権化。
中性的な顔立ちは傍目に綺麗だし、単に遠くを見ているだけの背中なら儚げにも見える。なるほど、それは神の御名において遣わされた聖霊のようではあるけれど、闇を纏うような黒づくめの出で立ちと、作為を映す右の頬のみに浮かぶ笑みは、さながら攻略難度の高いラスボスである。聖なるものと悪なるものを──しかもどちらも純度が高い──持ち合わせているから、こいつは誰にも踏破できない極みで人々を睥睨する神のように、至高として畏怖され、邪悪として恐怖される。
「……さて、」
至高であり、邪悪なる者が綺麗に嗤った。今、こんなときでなければ、誰もが見惚れるような、完璧な笑みだった。
普段、右の口角を持ち上げる程度の雑な作り笑顔しか知らない連中は、これが綺麗に嗤う瞬間の危険性を知らない。知らなくとも、何だかすごく不味いことになったと気づき、慌てるような勘があったら、猟犬なのに狩られることもないが。
「損失は身をもって償え、莫迦ども」
嗚呼、愉しそうだ。
恍惚を伴って響く声にフユトは思って、小型機関銃が乱射される音を柱の陰で聴きながら、逃げ出した残党を屠るために、刃渡り二十センチのナイフの柄を握り直した。
まだこうして、原型を留めて死ねるならいい。あの悪魔は生きた人間を破砕機にかけ、木っ端微塵にして魚の餌にしたり、廃車を潰すための圧力機でプレスした上で、薬品で溶かして海に流したり、実際の悪行と噂には暇がない。
フユトがその目で見たのは、小型プールほどの大きさと深さがある濃硫酸の水槽に生きたまま沈められそうになった、哀れな木偶の坊くらいではあったが。
血糊を払う。壁に、床に、点々と散る飛沫を見る。
戦前は工廠だったという廃墟へと半刻ばかり前に集められた十数名は殲滅され、射殺体や斬殺体となり果て、あちこちに転がっている。
ハウンドとして月に数人を殺すフユトが時たま駆り出される、大規模な粛清の現場はいつだって凄惨だ。それでも、死体を見慣れたフユトが眉を寄せることはなかったけれど。
「何したんだよ、連中」
死因も定かではない骸をぞんざいに顎で示して、フユトはシギに問う。
「大事な顧客の暗殺依頼を相談もなしに引き受けたのが三人、依頼案件の成功率が八割を切る能無しが半分以上、あとは素行不良だ」
殺されるような不始末をしたのは三人だけだったのに、その他大勢を巻き込んで組織内の手駒を調整するところも、この男が魔物たる所以なのだろう。表の仕事の兼ね合いで現場にはほとんど出ないから、腕試しや勘を取り戻す作業の一環もあるのかも知れない。
「……一歩間違えば俺も死んでたってわけね」
同業殺しについて、あることないことを噂にされるフユトが苦虫を噛んだように呟くと、
「お前の命は最初から俺が握ってる、安心しろ」
本来なら安心できるはずもないことを、シギがしれっと答えた。
まぁ、ここまでどうにかこうにか生き延びているのだから、化け物に愛されるのも悪くはない。
思いながら、フユトがナイフを仕舞うと、シギの左手が不意に視界に映って、反射的に半歩下がりかける。咄嗟の防御反応を嘲笑うように、フユトの鼻筋から頬にかけて飛んだ血痕を指の腹で拭った化け物は、そのまま顎を掬う形で固定して、
「久しぶりにしけ込むか」
ぞくぞくするほど獰猛な笑みを至近距離まで近づけて、囁くように誘う。
「……お前さ、恋人相手にすんなら場所は選べよ」
廃墟群にほど近いモーテルを何件か思い浮かべながら、満更でもなくフユトは答える。あそこは壁紙に得体の知れない染みがあるし、あっちはマットレスも布団も湿っぽくて嫌なんだよな、という具合に。
ふ、とシギが笑う。フユトだけに見せる、蕩けそうに甘い笑みがそこにある。
「お前からそれが聞けるとは思わなかった」
恋人、なんて口走ってしまった事実を恥じらい、目を逸らしたフユトに、
「それもそうだな」
答えながら、シギが喉笛に軽く歯を立てた。
こんな安っぽい個室にしけ込むのは、いつ以来だろう。
部屋のランクや設備にこだわりはなくとも、せめて黴や埃臭くないところと思ってしまうのは、普段に慣れてしまったせいなのかも知れない。
あの頃は雨風が凌げて夜露に濡れなければ、例え荒屋だとしても屋根と壁さえあれば満足できたのに、随分と我儘になってしまった。最愛だった兄と二人、たった一晩でも身を寄せ合って眠れることが、フユトの至上の幸福だったのに。
無知である以上の贅沢はないのかも知れない。肌に触れるシーツや枕、果ては浴室の壁や床の質感まで、普段と何かが僅かに違うだけで、途端に集中できなくなる。この壁はベニヤのように薄くないだろうか。外に接する浴室の向こうで押し殺せない啜り泣きを盗み聞かれないだろうか。二人の密室は維持できているのだろうか。
「
力み過ぎていたのか、長らく感じなかった鋭痛に呻く。浅く捩じ込まれた質量が出ていって、引き裂かれることに慄く本能が緩み、フユトは大きく吐息する。
「ぎこちないな」
焦るでも苛立つでもなく、ましてや処女でもないくせにと煽るでもなく、シギの手が静かに背中を滑る。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)
(ログインが必要です)