ナイトメアをあげる。-8

文字数 1,266文字

「ッ、クソ!」
 三部屋全てが蛻の殻だった。
 依頼者でもある同行者の男の話と、シギの情報網を使って集めた内容に狂いはなかったから、齎された情報自体が間違っていた可能性は低い。あるとするなら、保護司の元からの脱走か。しかも、押し込みに入るのと数日の差で。
「そんな……」
 激情を顕わにするフユトの隣で、依頼者が愕然と呟く。
「そんなはずが……」
 最後に開けた奥の部屋にだけは、僅かに生活痕が残されている。日常的に使われていたのだろうベッドの端に畳まれた寝具一式。恐らく、二度と帰らない養子のために夫妻が残していた、元少年のための安住地。
 自らの行いを本気で悪びれることのできる人間は、それだけで才能だ。
 ズルズルと座り込む男を横目に見たのが、生きた彼を目にしたフユトの最後の記憶だった。衝動に駆られた自分が何を仕出かすかなど、自分でよく知っている。
「……その顔で帰ってきたのか」
 明け方。フユトの帰宅を出迎えたシギは、言葉の割に、表情一つ変えなかった。
「今、近づくなよ」
 愛しい恋人を視認するなり、まだ殺気立つフユトが告げる。
「イライラし過ぎて殺しそうだわ」
 髪に、頬に、鼻筋に、額に、服に。飛び散った赤黒い飛沫が、フユトの身体を汚している。滅多打ちか滅多刺しにしなければ浴びない量の返り血に、シギは何かを悟ったらしい。近づくな、と威嚇する野良など意に介さず歩み寄り、苛立つフユトを正面から抱き寄せる。
「だ、から、」
「空振りか」
 突き放そうとするフユトの動きがぴたりと止まる。
「それで、苛立ち紛れに依頼人も殺した、そんなところだな」
 シギの言うことは全て当たっている。
 保護司の老夫婦が無駄死にしようと知ったことではないが、せっかく前菜を平らげたのにメインディッシュがなくては、シェフを呼び立ててクレームを付けるしかない。幸い、シェフは呼びつける前にフユトの隣にいたので、カッとなって何をしたかは説明するまでもなく、気づいたら依頼者の男は階段の真下でブクブクと黒い泡を顔面から噴いていた。顔立ちの判別もつかないほどの様相だった。
 血だらけの革手袋と凶器や工具箱は現場に捨て去り、フユトは使いっ走りのセイタに連絡を入れて迎えに来させ、ここまで戻って来たのだった。
 現場を監視したのかとシギに突っかかることはしない。見るまでもなく推測できるほど、フユトの行動パターンは知り尽くされている。
「六百の仕事が半分で終わりだ、短気を起こすな」
 形ばかり宥めるシギの体温を間近に感じながら、ようやく興奮が落ち着いてきたフユトは、鼻腔いっぱいに微かに甘い香りを吸い込んで、大きく吐き出す。
「……最初からこのつもりだったかも知れねェけどな」
 肩口に口をうずめたフユトの呟きに、
「何にせよ、死人に口なしだ、まぁ、個人で受ける判断は正しかったようだが」
 相変わらず、シギは宥める口調で答えて、
「残り三百、どう回収する?」
 意味深に尋ねる。
 フユトはシギの胸板に手を置いて身体を離し、挑発するように哂った。
「最初からアテにしてねェよ、あとはお前が身体で払え」






【了】
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