muzzle-1

文字数 2,333文字

 それの発露にきっかけはいらない。
 肩がぶつかった、目つきが気に入らなかった、喧嘩を売られた──理由なんか何でもいい。
 掴みたくもない後ろ頭を掴んで、建物の外壁の角に思い切り、顔面を数回にわたってぶつけてやる。頭蓋は意外と丈夫にできているものの、勢いのついた衝撃には弱いらしい。踏みつけた程度では割れない箇所が、歪にひしゃげてしまっている。前頭に喰らった傷のせいで、相手はもはや、マトモに話すことも立つこともできない。虚ろな目は瞳孔が開き切り、意識があるのかさえわからなかった。
 倒れ伏す相手を見下ろすフユトの瞳は冷たい。凍てついた真冬の星の如く、相手の耳孔から漏れ出る赤い体液を見つめている。
 フユトの半径二メートル圏内にはあと二人ほどが立っていたが、連れ合い一人がそんなふうになったものだから、物も言えずに立ち竦んでいた。
「……それで?」
 沈黙を破ったのはフユトだ。胡乱な瞳を、右手側に立ち尽くす一人に向ける。
「誰が誰を潰すって?」
 青ざめた顔が更に血の気を失い、白くなる。唇なんかは真紫だ。たった一睨みで気絶しそうな右手側の手合いから、利き手側の一人へ目をやると、そちらも似たような具合だった。失禁していないだけ上出来だ。
 ニィ、と凄惨に口角を釣り上げる。臆した相手が腰を抜かす。だったら最初から喧嘩など売らなければいいのに、怖いもの知らずの新参で、酒に酔っていたのだから仕方ないと言えば仕方ない。が、仕方ないで許してやるほど、フユトの度量は深くない。
「そこまでにしておけよ、フユト」
 さて、あと二人をどうやってシメようか、とフユトが目を細めたところで、興味などなさそうに眺めていた飼い主から制止が入る。
「ァあ?」
 思わず剣呑に返してしまって、シギの昏いだけの瞳と目が合った途端、フユトから全ての怒気と殺気が凪いだ。
 フユトが気の立った猛獣なら、シギはそれすらも喰らう怪獣だ。三人程度なら無傷で立ち回れるフユトでさえ、シギ相手にはサシでも勝てない。

は挫傷だ、殺すなと言っただろうが」
 耳からの出血は脳へのダメージを意味する。額がひしゃげてしまっては、ノーダメージだと言い訳もできない。
 あーあ、めんどくせ。
 と、フユトは内心で独りごつ。
 何年か前までは好き勝手していたのに、飼い主に首輪をつけられて、思い出すだに悍ましい拷問紛いまで受けて約束させられた身の上では、気に入らない手勢をどうこうすることさえ叶わない。しかも、シギと一緒に居るときに出会してしまっては、総帥の飼う狂犬の牙も抜かれたかと思われてしまうではないか。
 歩み寄るシギの瞳の奥に、不意に走る猟奇性を見て、フユトは大きく嘆息した。何の気なしに額へ突きつけられた銃口へ、両手を挙げる気分だ。パフォーマンスだけでも反省しないと、次に額を割られるのは自分になってしまう。
 泡を噴いて昏倒しそうな哀れな二人をそれぞれ見やる。舌打ちする。
「失せろ」
 地を這うようなフユトの声に縮み上がった二人は、倒けつ(まろ)びつ逃げ出した。
「相変わらず沸点が低いな」
 フユトの面前に立って、シギが嗤う。
「うっせェな」
 言いながら、フユトは顔を伏せ、視線を逸らす。
「まぁ、お前の気持ちはわからなくもない」
 フユトは更に視線を伏せる。
 元から気は短いが、自分や身内を虚仮にされると、導火線はより短くなる。ただの酔っ払いの戯れ言だとわかっていても、だ。
 昔は兄のことを言われると誰彼構わず殴りかかっていたのに、怖いもの知らずの新参がシギのことを舐め腐るものだから、本人が気にしていなくとも手が出てしまった。しかも一人を確実に殺しかけた。
「十人目」
 びく、とフユトの肩が跳ねる。倒れ込んだ新参一人の瞳孔反射を確認したシギの声に、自然と身体が強ばる。
「さて、どう落とし前をつけてもらおうか」
 ぞくりとした。ぎこちなく振り向いた先で、シギが陶然と笑っている。二度と手駒は殺さないと言わされたのに、あの苦痛を無にしてしまった。
「……ぁ……」
 次に突っ込まれるのは腕か、足か。何れにせよ、この身体は縦に裂かれるのだろうと思い至って、脂汗が背筋を伝う。如実に怯えるフユトを、路地裏の反対側の壁に追いやって、
「自分で選べ」
 瞳の奥を覗き込みながら、シギが喉で嗤った。

  *

 耳障りな暴言を聞いた。
 フユトも時折、実の兄を売女呼ばわりしたものの、心の底から思って侮蔑したことなどは一度もない。弱くて狡い弟を庇うため、養うため、命を賭して稼いでくれた兄の存在には感謝しているし、足を向けてなど寝られない。だけれど、客を取るために数多の男や女と寝た事実だけは受け容れがたく、感謝と嫉妬の狭間に立ち尽くすフユトはどちらにも転べずに、結局、深く傷つけ合う形での結末を迎えた。
 そんな兄を、尻軽や売女よりも酷い言葉で侮辱し、せせら笑う彼らに、プツン、と音を立てて我慢の糸が切れるまでもなかった。その言葉の意味を、この世で最も汚い侮辱だと理解した途端、身体が反射的に動いていた。
 耳がノイズを拾う。人や物が倒れ、グラスやボトルが割れ、周囲が息を呑む、雑音。
「もう一遍言ってみろ」
 地獄の釜の底から谺するような低い声で唸ったフユトは、殴られた衝撃で倒れた一人に馬乗りになって、呻く横顔に向けて無遠慮に拳を振り下ろす。アドレナリンが噴き出す中では痛みなど感じない。ただひたすら、その顔面を血塗れの肉塊に変えてやりたいと呪う。二度、三度、四度と殴りつけ、勢いのまま、顔面を掴んで後頭部を床へと叩きつけた。
 ぐしゃり、と、果物が潰れたような感触がする。鈍色の床に、黒色の水溜まりが広がる。
 あっ、と誰かが言った。次の瞬間、フユトの目はそちらに向かった。
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