Frozen Rose-5

文字数 2,291文字

「ねぇ、コトちゃん」
 と、トーカねえさまが言った。あの人、貴方、この子、その子。あたしと同じく、絶対に人の名前を呼ばないねえさまが、あたしの名前を呼んで。
「あなたは素直ないい子だから、わたしの言うことを絶対だと思わないで欲しいの」
 トーカねえさまとお付き合いしようと決める一か月前、ねえさまはそう言って、向かいに座るあたしに、悲しく微笑んだ。
「コトちゃんが思うほど、わたしは綺麗に生きていないし、優しいお姉様でもないのよ」
 あたしは首を振った。トーカねえさまはトーカねえさまで、あたしにはそれ以外のことなんか、どうでもいい。
 今まで、あたしを好きだという人と、何となく付き合ってセックスしてきたけれど、あたしと同じでみんな自分勝手で、あたしのお金を盗んだり、セックスするのに殴ったり、奥さんと子どもがいるのにゴムなしで中出ししたり、そんな人たちばかりだった。
 ほらね、あたしもキレイじゃないよ。
 あたしを産んだお母さんは実のお父さんと別れたきり会ってない。実のお父さんは二番目のお母さんと別れたきり会ってない。二番目のお母さんの恋人だっておじさんに処女を()られて妊娠して、殺されそうになって逃げ出した先で始めたのが風俗で、お腹の子も産んであげられなかったあたしは、全然キレイじゃない。
 好きって気持ちがどんなものかも知らないくせに、トーカねえさまを好きだと思うのは、トーカねえさまが優しくしてくれるから。あの街で知り合ったおにーさんみたいに、あたしのことを気にしてくれるから。
「でもね、コトちゃん、わたしはあなたが好きよ」
 トーカねえさまはあたしを産んだお母さんと同じ顔をして、あたしに笑ってくれた。だからきっと、トーカねえさまの好きに嘘はないし、あたしも、トーカねえさまと一緒に居たいと思う。
「あなたには絶対にひどいことをしない、つらい思いもさせない、だから、わたしと付き合うことを、少し考えてみて欲しいの」
 トーカねえさまは、あたしを好きだと言ってきた人たちみたいに、すぐに好きだと言わせなかった。考えるってことがどういうことか、あたしにはイマイチわからなかったけど、トーカねえさまの真っ直ぐな目を見ていたら、簡単に好きだと言っちゃいけないんだなって思えて、
「うん」
 考えることに頷いてみた。
 好き、と言われて、付き合おう、と言われて、こんなに悩んだことなんて、今までない。好きって気持ちがわからなかったし、好きだと言われたら、あたしも何となく好きなような気がしたから、これで寂しくなくなると思って付き合ってきた。
 でも、たぶん、それは違う。好きって気持ちに理由はなくて、身体の底から湧き上がるみたいに、震えるくらいに、好きだと思えてしまうことが、きっと好きってことなんだと思う。言葉にならなくても、傍にいてもいなくても、繋がっていてもいなくても、ずっとほかほかした気持ちになることが好きってことなんだと思う。
 おにーさんが恋人さんを見るときの横顔を思い出して、それは何だか、あたしの中にストンと嵌った。
 あたしも、トーカねえさまに、あんな顔ができるかな。信じてると言わなくてもわかるような、優しい顔で笑えるかな。
 トーカねえさまに付き合おうと言われた、と、おにーさんに連絡しようとした手は、止まってしまった。だってこれは、あたしが考えることだもの。あたしが一人で決めなきゃいけないことだもの。
 だから、一言、
 ──幸せ?
 と、おにーさんに送った。
 きっとめんどくさそうな顔をして、意味がわからないとぼやきながら、
 ──だから何。
 と、返してきたおにーさんは、幸せなんだ。
 恋人さんの束縛が重たくて仕方ないと言いながら、実は嬉しそうに見えたなんて、おにーさんには言わないけど。あたしと同じ寂しがり屋のおにーさんが幸せになれるなら、あたしだって幸せになれる。
 トーカねえさまを悲しませちゃいけない、と思う。だけれどそれは、あたしのことも傷つけちゃいけないことなんだと思う。
 一ヶ月ぶりに会うトーカねえさまは、人混みの中にあたしを見つけると、やっぱり綺麗に笑ってくれた。通りすがりの男の人たちが振り向くくらい、うっとりする顔で。
 あの日、トーカねえさまが話してくれたことを思い出す。
 あたしと同じくらいの歳の頃、すごく好きだった人がいて、その人の子どもを身篭って、結婚することまで考えていたって。でも、その人には実は奥さんがいて、子どももいて、トーカねえさまに赤ちゃんが出来たと知った途端、連絡もなしに居なくなってしまったって。トーカねえさまは一人で赤ちゃんを産んで、育てようとしたけれど、赤ちゃんは途中で死んでしまったって。
「わたしには無理だと言われたみたいだったの」
 俯きながら、トーカねえさまが言った。そんな風に思い詰めていた過去があるなんてわからないくらい、今のねえさまは綺麗だった。
「あの子の代わりだなんて思ってないわ、わたしはあなたが好きよ」
 だから、あの日の返事は決めていた。
 あたしも、お母さんが欲しいわけじゃない。あたしが寂しいからじゃない。ねえさまを傷つけないためでもない。あたしが傷つかないためでもない。
「あのね、」
 トーカねえさまを見上げて伝えた言葉に、ねえさまは少し驚いて、薔薇が咲くみたいに微笑んでくれた。周りの人が振り向く中、泣きそうなあたしを抱きしめて、背中をさすりながら。
「わたしもね、コトちゃん、」
 あたしは泣いた。ここが人の多い場所だとか、トーカねえさまの服を汚してしまうとか、そんなことは考えなかった。
 ──世界で一番、あなたが好きよ。




【了】
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