路傍の花-3

文字数 2,162文字

 低所得者や半無宿者の多い歓楽街に近いアパートが、ボクの帰るべき家になった。昼でも夜でも治安が悪いのに、立て付けが悪いせいで鍵がきちんと閉まらない。
 刃物を持った強盗なんて日常茶飯、男女問わず寝込みと路上で強姦される確率が高く、二日に一度は誰かが殺される。
 父さんと母さんの元で暮らしていたら知りえなかった、ボクにとっては悲惨な日々が漫然と横たわっている。彼らは昏い顔に無理やり笑顔を貼り付け、その日常を受け入れざるを得ない。
 生まれ持ってしまった不運は、なかなか覆せない世の中だ。彼らからしたら持てる側の人間だったボクは、わざわざ持たざる側に転落した物好きだ。
 最後の大戦後に建てられたボロボロのアパートの、固くて狭いパイプベッドの上が、ボクの最後の安息地だった。
 歓楽街の風俗店に小間使いとして雇われ、毎日、怒号を浴びながら日銭を稼ぐボクを、その人は月に二回、訪ねてきた。そして毎回、二人分の体重で壊れそうに軋むベッドに、苦笑しながら帰っていく。
 その人と会うのはボクの数少ない楽しみの一つだったけれど、ドラッグをキメないボクは同性同士のセックスの不快感で、毎回、吐いた。彼の苦笑は、ガバガバに緩んでしまったソコと、ボクの反応のギャップにもあるかも知れない。淫蕩なビッチのくせに、と思っているのかも知れない。
 幸い、歓楽街には異性同士、同性同士のそういう話はたくさん転がっている。ボクが勤める店の風俗嬢たちだって、お客さんの性技の拙さ、貢物がないと相手にしてくれない恋人の愚痴なんかを、ただの小間使いのボクにも話す。ボクがニコニコしながら聞くものだから、待機時間の暇つぶし相手と見なされているのだろう。
 その中で、ゲイの友人がいるという風俗嬢に、ボクはふと、好きな人とのセックスの悩みを打ち明けてみた。最後までしたい気持ちはあるのだけれども、いざとなると、どうしても吐いてしまうと。
「それ、あんたが本当はヘテロだからでしょ」
 と、彼女はにべもなく、ボクが異性愛者であることを指摘した上で、
「それでもって言うんなら、夜しかやってない薬局にイイモノあるよ」
 彼女ら御用達の、怪しげな店を教えてくれた。
 あの人を失望させないためなら、繋ぎ止めるためなら、ボクは何だって出来たし、何にでもなれた。
 次に彼が訪ねてきたとき、ボクはそれを枕元に用意して、その人がシャワーを終えるのを待っていた。正直、ドラッグをキメていた頃の倒錯めいた快感が懐かしいこともあって、ボクの心臓はいつもより忙しなく打っている。
 この愉悦がいつまでも続いて欲しい、と願う気持ちと、早く終わって欲しいと思う気持ちが綯い交ぜになる、あのつらくて苦しくて悦いだけの瞬間が、またやって来るのだと思うだけで、その感覚をしっかり記憶した体は熱を帯び、緩やかに反応していた。
 彼はいつも、ボクが強請ってもキスをしない。だからボクのほうから、薄い唇の端にそっと口付ける。
 モーテルや自宅でしか会えない恋人、お金や物を渡さないと機嫌が悪い恋人、暴力はあるけれど普段は優しい恋人、お店に行かないと会えない恋人などなど、店の風俗嬢から聞かされる話と、ボクと彼の関係は似ている。きっと、彼はボクを好きじゃない。でも、何か目的があるから来てくれるのだし、今度こそはと願ってセックスを望むボクに付き合ってくれている。
 唇の端に口付けると、彼は優しくボクを押し倒して、薄っぺらな胸の愛撫をしてくれる。本当は、非合意のセックスの最中みたいに熱い舌で首筋を舐めて、顎先まで唾液まみれにされたかったけれど、ボクから求めると彼は体を引くから、むず痒い僅かな感覚に浸ることにしている。
 浮き上がる腰骨を指が撫で降りて、体毛の薄い鼠径部を這いずるのを合図に片足を立てて開くと、何をしなくても柔らかくなっているソコに、彼がボクの唾液で濡らした指を入れてくれる。探るまでもなく知られた場所を触られるのは気持ちいいのに、これが指でなくなるだけで吐いてしまうのだから、ボクの体は本当におかしい。
 ボクが一度、内側の刺激だけで吐精するまで、その人はじっくりと、ソコを虐めてくれる。その頃には、ボクはすっかり出来上がっているし、脳に焼き付いた指以上のもので犯される感覚を欲するのだけど、体と心はなかなかどうして、一致しないのだ。
 ゾクゾクするような愉悦に背筋を反らし、息が整うのを待って、汚れた肌もそのままに四つん這いになる。欲しがっているように見えるから腰を振れと、神経に焼き付く声が言うので従うと、その人はいつも苦笑する。このあと吐くくせに、と思われているんだろうな。欲しがったのはお前じゃないかと罵倒してくれたらいいのに。
 でも、今日は違う。ボクにはお守りがある。
 枕の下に潜ませた小瓶を取り出す。鼻の下に当てる。点鼻薬と同じ要領で吸えばいい、と言われた通りに準備すると、
「……何してる」
 このあとの愉悦を思って熱を帯びる体から、血の気が一気に引くような、彼の低い声がするから。
「……ぁ……」
 振り向いたボクの喉から、微かに声が洩れた。
 冷たい目。セックスしているのに、その熱気を伴わない冷静な目。彼に表情はない。瞳の奥の深淵から、グロテスクで異形の怪物がほんの少し顔を見せたような、殺気を孕む狂気の目。
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