路傍の花-4

文字数 2,631文字

 動物の本能として怯えるボクから、その人は茶色い小瓶を奪って、更に冷たい目でボクを見る。手足の先から体温がなくなって、胃袋の奥が凍えるように冷たい。
「……それは……」
 言い訳なんか求めていない、とばかりに、その人が目を眇めるから、
「……ごめんなさい」
 口篭りながら謝った。
「もういい、わかった」
 普段なら穏やかに響く声なのに、一切の感情が欠落した冷淡な声音は、ボクの心臓をじわじわと蝕む。言外どころか、表情や雰囲気全体でボクに心底呆れ、失望する彼に何も言えないでいると、彼はそそくさと身支度を整えて帰ろうとするから、思わず手首を掴んで引き止めてしまった。
「ちが、違うんです」
 振り払われる予感がしていた。けれど、彼はそれをしなかった。
 俯くボクが言葉を紡ぐのを待っている。
「ボク、いつも上手く出来なくて、でも気持ちよくなりたかったから、その……」
 嘘はない。嘘じゃない。
 手首を掴まれたまま、無言でいる彼を上目に見上げる。
「クスリに頼れば、きっと上手くできるかなって……」
 彼の目は何も答えない。
 このまま見捨てられたら、持たざる側に落ちたボクは、どうやって生きていけばいいんだろう。危険な香りに惹かれてしまったのが、きっと、そもそもの間違いで、間違ってしまったボクは、一人じゃ正しい道に戻れない。
「……ごめんなさい」
 ボクはまだ、その人が怒る理由が、勝手にクスリを使おうとしたことにあると思っていた。ボクの本心を伝えれば、きっと理解してくれると、浅はかに思っていた。
「お前の躾は、今度から別の人間に任せる」
 だから、彼が冷たい声でそう言ったとき、ボクは何を言われているのか理解できなくて、彼の冷たい無表情を仰いだ。
「え……?」
 その人は右の口角だけをゆるりと上げて、
「俺が温情でお前を抱いていると思ったのか」
 ボクに好意など端からなかったと、宣った。
「素質はありそうだから拾ってやったが、見誤ったな」
 手首を掴む手から力が抜けるのを見計らったように、彼は振り払うと、そう言い残して帰ってしまった。
 心臓が凍てつき、砕けて、バラバラになっていく心地がした。彼は彼の目的のためにボクを拾っただけで、何かが違えば捨て置かれていたのだと思うと、誰もいない袋小路で凍死してしまったほうが、ボクには何倍にもいいように思えた。
 彼は表情に乏しいけれど、いつもは穏やかな顔でボクを見ていたのだ。冷たさの欠片なんて一切感じない、柔らかで耳馴染みのいい声で、ボクの他愛ない話に相槌を打っていたのだ。彼に好かれていなくてもいいけれど、体を求める程度には好意があって欲しいと望んだボクは、欲張りだったかも知れない。世間知らずのいい所のお坊ちゃんを騙すくらいのことでは、きっと、彼の良心は痛まないのだ。
 世の中には、善人と、善人だったけれど悪人にならざるを得なかった人と、偽善者と、悪人ぶる小心者と、根っからの悪人がいるのだとしたら、彼は圧倒的に根っからの悪人だった。
 二ヶ月ぶりに訪ねてきた彼は、萎縮するボクを歓楽街のモーテルに連れ出した。最初から用意されていたらしい部屋には、三十代くらいの女性が、黒革のボンテージ姿で待っていた。ベッドには既に、拘束具が用意されていて、これから何をされるのかなんて、言われなくても察する。
 戸惑って彼を振り向こうとすると、その人は女性に歩み寄り、親しげな口調で何かを話しかけるから、ボクは口を噤むしかなかった。
 二人が五分ほど話している間、ボクは手持ち無沙汰に立ち尽くすしかない。逃げ出そうにも、ここはオートロック式だし、ボクが本気で抵抗したとしても、逞しい彼には敵わない。
「確かに見込みはありそうね」
 不意に彼女が言って、ボクはそちらを見る。口元にホクロのある彼女がにっこりと、艶やかに笑っている。
「俺はしばらく手が放せない、言ってくれれば経費は持つ」
 背中の中程にかかる黒髪が揺れた。彼女が緩やかに首を振ったのだ。
「あの子は手が掛かりそうだもの、堕ちるまでが大変よ、きっと」
 彼女の言葉に、くつくつと、喉を鳴らして嗤う彼を、ボクは初めて見た。
「堕とし甲斐はある」
「愉しそうなあなた、初めて見たわ」
 何だか不穏な会話が成されている傍で、ボクは更に心許なくなって、そわそわと視線を巡らす。そんなボクに気づいた彼女が、
「シャワーを浴びて準備していらっしゃい」
 妖艶に笑いかけるから、ぎくりとした。
 どうせ逃げられないのだし、手持ち無沙汰にしているよりはと、言われるままにシャワーを浴びる。体に重りが仕込まれたみたいな感覚と共に、ボクの気持ちも沈んでいく。
 二ヶ月前は、彼の顔を見るだけで気分が高陽したし、シャワーを浴びながら期待していたのに、今は鬱々としてしまう。ベッドの上の様子を見れば、何をされるかなんて、火を見るより明らかだ。もう、彼に触れてもらうことは一生ない。絶妙な加減を心得たフェザータッチの愛撫が懐かしい。
 ノロノロと準備して、シャワーを出る。冴えない顔をしながら戻ると、果たして、部屋にはまだ彼の姿があった。
 彼女の前に立ちながら、ソファに座る彼に、助けを求めて目線をやると、革のグローブをした細い指がボクの顎下を擽るように撫でるから、その心地良さに思わず目を伏せた。
「いい子ね」
 何故か褒められながら、両手で頬を包まれる。片手で耳朶を、片手で髪を撫でられる。後ろの髪を梳る手つきが気持ちいい。耳の縁を辿る指がそっと、耳の穴の浅瀬を撫でて、
「ン……っ」
 びく、と体を震わせながら、声を出してしまった。
「確かに感受性はいいのね」
 彼女は彼に感想を告げながら、耳朶を虐める指を頬に滑らせて、ボクの唇に触れる。指の腹で唇の縁をスリスリされると、反射で、口内に唾液が溢れた。
「うっとりしちゃって、可愛い」
 深くキスをされる。彼にはしてもらえなかった、濃厚なキス。
 女性をリードするのが役目とばかりに、ボクが彼女の舌を吸おうとすると、反対に彼女に吸われて啜られ扱かれ、閉じた瞼が震えるのがわかった。
 彼が見ているのに、ボクの体は彼女のキスと、止まない愛撫で熱を上げる。好きだった人に、好きな人に、女の人を相手にした痴態を見られているのに、声も腰も止まらない。
 立ち尽くしたまま、彼女の舌が顎を、首筋を、鎖骨を、胸を、脇腹や臍を辿るのを、呆然と許してしまう。本当は彼にしてもらいたかった愛撫に喘ぎながら、屹立に近づく彼女の髪を、くしゃりと握った。
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