負け犬-1

文字数 2,295文字

 熱い衝撃が脇腹を貫いた。体重を載せた重さのある刺突は引き締まり始めた筋肉を割り、柔らかな腹腔へと達する。内臓や動脈類の位置を正確に知る相手に刺されたとはいえ、これでも手加減されているとはいえ、出血に伴い脳裏を過ぎる死の文字はどうしたって、生存本能を脅かす。
「弱すぎる」
 膝を付き、上体を前傾に床へ倒したフユトの肩を踏みつけて、絶対的な支配者が宣った。
「こんなんじゃ、お前の兄貴も即死だな」
 シュントの存在を出されて、反射的にシギを睨み上げてしまった。その目つきが気に食わないと、肩を踏みつけていた足で側頭を蹴られる。脳天を揺らす衝撃を逃せないまま、横倒しになったフユトの脇腹に突き立つナイフの柄にシギの爪先が添えられて、
「ほら、啼け」
 ぐりぐりと腹腔を掻き回すから。
「……ころしてやる」
 悶絶しそうになる痛みに呻きながらも、フユトは敵意と殺意を損なわず、支配者に宣言した。
「いつか、ぜったい、殺してやる……!」
 あの時の傷痕は、まだ消えていない。
 殺してやりたかったはずなのにな、と、モーテルのシャワーを頭から浴びながら、あの頃よりは幾らか角の取れたフユトは思う。
 浴室を出る。身体を拭く。その動作はどうしたって、緩慢になる。力でも技量でも勝てない男を相手にする嫌悪が、フユトの動きを鈍らせる。
 深呼吸している間に捩じ込まれる指の感触さえ通過してしまえば、あとは悦くなるだけだと知っているのに、その瞬間には未だ慣れない。行く行くは、シギが持つ凶器じみたそれを挿入するのだろうと思うだけで、フユトの動作はまた、一段と遅くなる。
 手篭めにされる女の気分はこんな感じだろうか。街頭に立つ娼婦や男娼たちは皆、こんなふうに絶望と対峙して、金のためだと割り切り、やり過ごしているのだろうか。
 ようやく全身を拭ったタオルを腰に巻き、別のタオルで濡れ髪を雑に拭いながら、フユトの顔は浮かない。それもそうだ。脱衣室の向こうのベッドルームには、これからフユトを手篭めにする男が待っている。
 気持ち悦くなり始めたら、快楽に流されてしまえるのに、それまでの段階が憂鬱で仕方ない。ごつくて硬いだけの男の身体に欲情するシギの性癖に文句はないけれど、男娼を抱くことはできても、抱かれることに納得のいかないフユトには、準備の過程は地獄そのものだ。
 目の前の憂鬱か、その先の愉悦か。毎度のように思ってはみるけれど、フユトの答えはなかなか出ないのだった。
「随分と時間をかけるな」
 髪の水分があらかた取れたところで脱衣室を出ると、クイーンサイズのベッドの縁に腰掛けたシギが待ち構えていて、揶揄するように目を細める。また数段、気分が沈む。
「……慣れねェんだよ」
 何に、とは触れずに告げると、
「また一から教えてやろうか?」
 直腸内の汚物を取り除く方法を手とり足とり教授したがる声が答えて、更に気分が落ち込んだ。
「絶対に頼まねぇ」
 それでも、このまま死んでしまいたいと思いたくなる憂鬱は今だけだと、フユトは知っている。どれだけ悪態をつき、所有されてなるものかと突っぱねたところで、ローションを纏うシギの指が括約筋を優しく撫で始めると、その先を覚え始めた身体が熱を持ち、体内から刺激される屹立がかつてないほど張り詰める瞬間が訪れることは、経験則で理解している。
 シギからのキスは一分で拒んだ。これ以上は駄目だと、本能が嫌がる。顔を逸らして逃げるフユトを深追いすることなく、シギは乾いた指先を下腹へ滑らせるだけの愛撫を施し、腰を守るように巻かれたタオルを外すのだ。
 生理的な嫌悪感に唾が湧く。飲み下す。投げ出したままのフユトの片足を掴む手は、そこはかとなく冷たい。シャワーで温もった身体から体温が奪われるようで身震いする。身震いしながら、片膝を立てられ、僅かに萎縮するそれの奥を見られるのは、更に嫌悪が募る。
「……見んな」
 あまりにじっくりと見られるので、フユトが思わず抗議すると、
「見なきゃ何もできない」
 当たり前のようにシギが答えた。
 しなくていいんだよ、とは言えず、押し黙る。恒常的に作動する換気扇の微かな音が耳につく。
 やっぱり嫌だ、と、情事の最中、何度か言いかけたことがあった。寂しさを埋められるならと惰性で承諾した関係ではあるものの、排泄器官を嬲られることへの心の準備は未だできていないし、気分によっては一分だって触られていたくない。シギは強引に事に及ぼうとしないから、快感を揺蕩うフユトを高みへ押し上げるついでに兜合わせをするくらいだけれど、終わってみるとそれすらも苦痛に思うことがある。
 堕ちたくない、のではきっとない。フユトの本音を汲むシギは絶妙な加減で一時的に嫌悪を取り払ってくれるから、身を任せられるのだと思う。絆されるのは悪くないし、堕ちてみるのもいいのかも知れない。けれど、堕ちたあとに後戻りできないことだけが怖くて、フユトの足を竦ませている。
 ここが感じる、ここも感じる、と丹念に教えられた場所で緩やかに体温を上げながら、表皮に走る微弱な電流で嫌悪を散らされる。微かに鼻や口から声が漏れると、シギの指が更に優しさを伴って性感を教え込んでくれる時間は、嫌いじゃない。嫌いじゃないけれど、知らないでいられた自分を知らされる、或いは別の誰かに作り替えられていく過程は、フユトの正気をジワジワと蝕むようだから落ち着かない。そう、落ち着かないのだ。
 緩んだ後孔をシギの中指が割る瞬間、嫌だ、と拒みそうになる声を飲み込む。拒んだところで、どうせまた、シギのキスと愛撫で気を逸らされながら、受け入れるしかなくなるのだから。
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