お気に召しませ。-1

文字数 2,684文字

 竦んでいる。
 気が短くて凶暴で、あいつだけは絶対に怒らせるなと言われるフユトなのに。目付きが気に入らない、すれ違ったのに挨拶もない程度のことで、同業者を加減のない暴力で殺してきたフユトなのに。
 呼吸が浅く、速くなっている。背筋を伝うのは冷や汗だ。フユトの両膝を床に付かせて正座させたまま、かれこれ五分は何も言わずに見下ろしている飼い主はまだ、動かない。
 大事な仕事を一件、飛ばした。飼い主が手早く根回しして尻拭いをしてもらったから何とかなったものの、フユトに入る予定だった依頼料の八割は肩代わりした誰かのものになる。自分のミスを棚上げしたわけではないし、本気でそう思っていたわけではないけれど、依頼料が削られることに関して軽い文句を言ったらこの有り様だ。これでも飼い主の怒りは本気でないのだから、本気で怒ったらいったい何がどうなるのだろうと現実逃避する頭の片隅で考えて、ちらりと目線を向ける。
「あ?」
 底冷えする冷徹な目を僅かに眇め、飼い主が剣呑な声を放つので、フユトは慌てて俯いた。
「それで、何か言うことはないのか」
 いつもより低さを増した声が尋ねる。びく、と肩を震わせて、フユトはますます俯きながら、
「ごめん……なさい」
 悪戯をして反省させられる子どもよろしく、小声で謝る。
「それで済むと思ってるのか」
 謝ったからそれで良しとするつもりはなかったけれど、飼い主から更に詰められるものだから、
「……謝る以外に何しろってンだよ」
 聞こえないように小声で呟いてしまったのが悪かった。
 顎を下から掴まれて顔を上げさせられる。飼い主の冷たい指の感触にぞっとして、しまったと思っても後の祭りだ。絶対零度の光を宿す眼差しが、殺気を伴ってこちらを見ている。
「痛いのも苦しいのも悦過ぎるのも好きだからな、お前は」
 言いながら、悪辣な顔で嗤うシギに、
「何をどう仕置きしても空っぽな頭じゃわからないようだから、これ以上は俺もお手上げだ」
 耳まで熱くなるのを感じた。
 その瞬間にシギが放つ凄惨で壮絶な色気は、他者を喰らって生きる捕食者ゆえなのだろうか。あの顔で見下ろされながら踏み潰されたいと思ってしまうのは、マゾ気質の末期症状かも知れない。
 顎を掴んでいた手が離れても、フユトはシギを見上げたままだった。飼い主が冷淡な横顔で携帯端末を手にし、僅かな手順を踏んで耳に当てても、薄情を体現する薄い唇が何を紡ぐのかを見守ってしまう。
「トーカ、これから時間はあるか」
 待ての姿勢のまま、涎を零す忠犬のようだったフユトの顔が、途端、真っ青になった。
「ま……っ」
「あぁ、躾けて欲しい家畜がいる」
 懇願しようと声を上げるフユトを、シギの虚ろな目が見た。使えない手駒をミンチにするときの、化け物の目だ。
「やだ、ごめん、悪かったから、もうしない、気をつけるから!」
 形振り構わず足に縋ろうとすると、端末を持っていないほうの手がフユトの喉に絡みつき、的確に動脈を押さえて力を加えてくる。言葉と態度で反省を訴える術を失い、失神させようとする手首を掴んで爪を立てる。例え爪で肉を抉って血塗れにしても、シギは痛覚を知らないから涼しい顔のまま、フユトの悪足掻きを眺めるだろう。
 虐めて欲しくて仕事を飛ばしたわけじゃない。けれども、きっと普段の三倍攻め抜かれるだけだと高を括っていたのは事実だ。
「聞こえただろう、お前の店の倍は出す、何をどうしてくれても構わない」
 酸欠になって、気が遠くなる中、
「生死も問わない」
 酷薄な声が確かにそう言ったのを聞いた。
 通話を終えたシギに叩き起こされて、フユトはのろのろと身体を起こした。これから天敵がやって来るのだ。どうしたって動きは緩慢になる。
「準備しとけ」
 シギの声は冷たいを通り越している。
 本気じゃなくとも、今回ばかりはかなり怒っているのだとようやく理解したところで、フユトに為す術はない。どうか、あれがフユトに反省を促すパフォーマンスであって欲しいと願いながら、救いを求める眼差しを向けると、
「俺の手を煩わせるな」
 迷わず浴室に連行されそうになるから、自分ですると宣言せざるを得ない。
 取り敢えず一人になろうと浴室に籠る。脱衣場と扉で隔てたところで、腰が抜けたようにへたり込む。
 こういう危機的状況はたびたび経験しているけれど、今度はもう、逃げ道がない。
 頭を抱える。溜息をつく。どうしてやらかしてしまったんだと自分を責めて、フユトは短い人生で初めて、自分の為人を深く呪った。
 ああなってしまったら、シギはしばらく、いつものようには戻らないだろう。甘い声で名前を呼んで、反省したならそれでいいと抱き寄せてくれる日が遠い。
 そのまま、どれくらい打ち沈んでいただろうか。常時換気する浴室の気温に冷えた身体が震えるのと、内側からロックしたはずの扉が外から開けられるのは、ほぼ同時だった。震えようとした身体が強ばって固まる。蹲る体勢でぎこちなく振り向くと、夜叉も裸足で逃げ出す剣幕の気配を纏ったシギが、フユトを真っ直ぐ見下ろしている。
「……ぁ……」
 あまりの恐怖に、涙も滲まなかった。免疫のあるフユトでなければ失禁していたかも知れない。シギの怒気はそれ程まで強い。
「何をしてる」
 真冬の外気より凍てついた声が、地を這うような低音で響いた。思わず息を呑みそうになったフユトに目を眇め、
「使えないなら捨てるぞ」
 冗談には聞こえない台詞がフユトの体温を更に奪う。胃が急激にひっくり返ったように、酸っぱいものが食道を駆け上がった。咄嗟に手で抑えなければ、その場で全て嘔吐していただろう。
 怖い。こんなシギは知らない。
 いつの間にか、身体が震えている。寒さのせいばかりでなく、命が脅かされていると本能的に感じたためだ。
 強いストレス反射を見せるフユトに、しかし、シギは鼻で嗤っただけだった。そこにはもう、甘やかす意思も、根深い執着も底なしの情愛もない。
「さっさと立て、処理してやる」
 着衣のままのシギが裸足で浴室に入ってくる。吐瀉物を吐き出すまいと手で口元を押さえたまま、フユトは嫌々と首を振る。
 トーカの攻めを受けるより、シギに生皮を剥がされるほうが何百倍もマシだった。大嫌いなピアッシングを雄の象徴に施されてもいい。だから、あの魔女の手にかかって鳴かされたくはない。シギの目の前で、堕ちていく姿を晒したくない。
 次の嘔吐反射は抑えきれなかった。手を汚した吐瀉物と胃液が床の大理石をも汚す。そのまま数分、吐き続けて、胃も空っぽになったというのに、嘔吐いてしまう。胃酸で焼けた喉が痛い。
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