溺愛シンドローム-2

文字数 2,513文字

 満たされていたい。飽きることなんて永遠にない。欲しいのはシギだけだ。すぐにでも何処かへふらりと消えてしまいそうな、危なげな存在だけだ。
 あんなに嫌悪し、憎悪し、殺意さえ抱いていたというのに、彼の腕に閉じ込められることも、瞳の奥を覗き込まれることも、両の口角を持ち上げて微笑まれることも、境界線さえ曖昧になるドロドロのセックスも、今では全部、全部、好きになっている。それなしではいられない麻薬のように、肉体も精神も崩れるほどに甘く引き裂かれたら、後戻りなんてできないに決まっている。
 弱くていい、だから生きたい。強くなくていい、ただ、傍に居させて欲しい。
 起き抜けの頭でキスを強請る。そろそろ出なくてはならないシギはそれでも、フユトの甘えを受け入れて、深いキスで返してくれる。舌の付け根がじんと痺れて、朝っぱらだからこそ、腰の奥まで一気に沸騰する。切なさが滾る。
「……シギ、」
 離れた唇が寂しくて名前を呼ぶと、
「そんな顔をするな」
 愛しげに、けれど苦く微笑まれる。相手をしてやりたいのはやまやまだけれど、今日は朝から取締役会に会合に会食と予定が詰まっている、と表情で伝えるシギに頬を撫でられる。
「夕方には戻る」
 そう言って、後ろ髪を引かれるように出ていくシギを見送り、フユトはもう一度、温もりが残るベッドへ身を沈めた。
 こんなはずじゃなかった、と思う。それでも、これで良かった、と思う。
 暴かれることに怯えて噛みつき、抵抗していた頃が随分と遠い。自分の大切な何かを明け渡してしまいそうで不安だったあの頃、排泄器官を割って前立腺を探る指の存在にすら吐き気を覚えたのに、何てことだ。絆されたと言えばそうなのだろうし、長く一緒にいるから沸いた情もあるだろう。でも、フユトは今、シギと恋人関係でありたいと願っている。守られて、大事にされて、何一つ残らないほど溶かされて、死に場所は此処だと定めている。
 昼まで惰眠を貪って、起き出したのは十三時過ぎのことだった。些か眠りすぎたようで、頭の奥がじんわりと痛い。
 こうして長く眠ることも、自堕落に二度寝することも、シギの傍にいるようになってから覚えた習慣だ。化け物の牙城を知っている人間はほんのひと握り、フユトを除けば組織の幹部連くらいで、敵襲の恐れはほとんどない。ホテルの警備員が襲撃されるとしたって、ここで雇っているのは元公務員やら元軍属のように厳つい面々なので、セキュリティも万全である。
 無人のリビングをぼんやり眺めて、そうだ、シギは朝から外に出たのだと思い出し、大きく欠伸をしてからシャワーに向かう。
 何の予定もない一日だ。外の天気は相変わらずの薄曇りだが、雲の色は明るく、雨の心配はない。
 さて、シギが戻るまでどうしようか。
 シャワーを止めて濡れ髪を掻き上げ、フユトは考える。
 遅めの昼食がてら、入会したきり行かなかったジムに行くか。それともシギが暇潰しにと置いていったタブレット端末で、気になっていた作品でも観るか。
 全編ワンカットの戦争映画はシギと一緒だと原語で字幕なしだから見ておきたいものの、抜け駆けのようで気は進まないし、サイコスリラーを謳うリメイク作品は退屈そうだ。
 このところ、本格的なトレーニングをしなかったからジムに行ってウェイトでもして、鈍った身体を叩き起こすのもいいけれど、それも何だか気乗りはしない。
 極上の柔らかさと吸水性を誇るバスタオルで髪と全身を拭きつつ、ふと、フユトは手を止めた。
 起き抜けのぼんやりした記憶でも鮮烈に残る、キスの感触を思い出して唇をなぞる。
 シギの忙しさを理由に、満足いくようなセックスはしばらくしていない。最後に本番をしたのはいつだっただろうか。何てことはない挨拶程度の、それでも割かし深いキスで朝勃ちを刺激したくせに、その先のお預けを食らっていることをまじまじと思い出してしまうと、フユトがすべきことは一つだった。
 ファーマシー。
 薬剤師をしている彼の本名は知らない。劇毒物取り扱いの資格を有しているとかで、痕跡の残りにくい毒殺や薬殺専門のハウンドだ。一度、次期幹部候補として紹介されたときに会ったきりだが、通名から想像する研究オタクのようなイメージを裏切る優男だったことは、未だにはっきり覚えている。
 暗殺だけでなく、色恋関連の厄介事──ストーカーによる被害者殺害の手助けや、レイプのための睡眠導入剤の調合、果ては非合法のセックスドラッグの密売など──も引き受けていると聞く、少し癖のある人物だ。
 オオハシ以下、数名の幹部は、組織の古株であり、依頼料が最低ビリオンの曰く付き案件のみを引き受ける存在で、その殆どが表の仕事も持っている。フユトが会ったのはオオハシ、トーカ、ファーマシーの三人だけだが、他にも数人、現役のハウンドやハイエナの世話役をしているのだという。が、オオハシを除いて、幹部の九割はシギと同じサイコパスか、単なる殺人狂、他者を害することに性的至福を覚える極度のサドと、人道に悖る連中ばかりなのだ。積極的に付き合いたくはない。
 被害者が血反吐や泡を噴いてのたうつ姿で自慰をすると噂の薬剤師にも会いたくはなかったが、背に腹は替えられない。多忙なシギに理性をかなぐり捨てさせるためだ。
 初対面時に教えられた連絡先に、話があるとだけ連絡を入れて、フユトは街に出た。春特有の埃っぽい香りがする。八つ時の外は暑くも寒くもない、適温だった。
「……皆さん、そういう風に聞かれますけどね」
 狐目の優男は白衣のまま、勤務先の薬局の裏手でフユトを迎えると、困ったように頭を搔いた。
「合法の媚薬なんてものはファンタジーで、実在しませんよ」
 要するに、相手の性欲だけを俄かに高める薬物はなく、脳を興奮させてトランス状態に置くのは大概が非合法の薬剤──ドラッグや覚醒剤と呼ばれるものらしい。
「それでもと言うなら現物でお渡し出来ますが……」
 戦後、海外からの輸入ルートが限られてしまったそれらを、すぐに現物で渡せる時点で、この男の見た目に騙されてはならないと直感する。
「いや、使うのは俺じゃなくて──」
「ボスにでしたらお勧めはしません」
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