雨季-5

文字数 1,964文字

 昼過ぎに降り出した雨は、夜には本降りになり、深夜に向けて雨音はいや増す。夕方に聞こえ始めた遠雷は、今や真上で轟いている。
 夢を見ている。
 吹き荒れる風が怪物の咆哮のようで、鳴り響く雷が世界の終焉を告げていて、小さな胸は不安でいっぱいで、安心できる(よすが)を求めた。いつも怖がって抱きつくと、大丈夫よ、と答えてくれる声が欲しくて、何よりも大事な存在を探した。
 青白い雷光に照らされた二つの孔は闇より昏く、虚ろだった。真っ黒な血で(ぬめ)る顔には皮膚がなく、骸骨に張り付く表情筋が剥き出しで、そこに見知った面影はなかった。
 床に転がるものを識別できないまま、傍らに立つ影を見つけた。青白い明滅に照らされて浮かび上がる、青黒い髪と真っ白な肌。奪ったはずなのに全てを喪った目をする、絶望と失望しか知らない少年の影。
 髪を梳かれる感触に目を開ける。夢の中の少年が青年になって、横たわるフユトを見下ろしている。
「風邪ひくぞ」
 シギが甘い声で言った。
 部屋に帰ってきて程なく、リビングのソファで眠り込んだらしい。シギがいつ戻ってきたのか、いつから膝枕をされていたのか、まるで覚えていない。
 起こさないように気を使ったのか、リビングは暗いままだった。空を走る稲光が時折、室内に滞留する闇を照らす。
「……魘されてた……?」
 雨の日の夢見の悪さは自覚している。ぼやけた意識のまま、シギに何気なく問うと、
「笑ってはいたな」
 癇に障る言葉で、はぐらかされる。
 この男は、いつだってそうだ。フユトがどんな悪夢を見ているのか、頭の中でも覗いたように予想して、気のせいだと刷り込むように答える。狡いと思いつつ、気遣いを気遣いに見せない遣り口が心地いい。
「起こしてくれりゃいいのに」
 言って、フユトは目を閉じた。
 髪から耳朶に滑る指先がくすぐったい。子どもをあやすような手つきなのに、もっとして欲しくなるのは、フユトに残る幼児性が求めるからだろうか。或いは、それがシギらしい戯れだと、熟知しているからだろうか。
「起こしても起きなかったのはお前だ」
 そう言って、シギは喉で嗤うけれど、本当はそうじゃないことも、熟知している。
「……久しぶりに、女、殴った」
 昼間の出来事を回想して、フユトは薄目を開けた。
 拳ではなく平手で、しかもかなり加減はしたものの、苛立ち紛れだったから、口の中は切ったかも知れない。
「そうらしいな」
 やはり、シギの情報は早かった。恐らく、風俗店の経営者と知り合いか何かで、向こうもフユトがシギの子飼いだと知っていたからこそ、クレームの一つでも寄越したのだろう。
 何年か前なら、その手の誘いは断らなかったし、美味しい餌だとすら思っていた。今は、シギが長期不在の間以外、魔が差すことなんてなくなっている。
「面倒だったんだよ、いろいろと」
 耳朶をくすぐるシギの指を剥がして、ようやく起き上がる。ベッドよりも狭い場所で寝ていたものだから、両肩の筋肉が強ばっている。気休め程度に首の骨を鳴らして、
「興味もねェ奴にうろつかれるの」
 うんざりと吐き出したフユトの言葉に、シギがくつくつと失笑するから、胡乱な眼差しを返した。
「……何で笑うんだよ」
「他人の好意に疎いからな、お前は」
 不本意だとばかりに睨め付けるフユトの肩に腕を回して、シギが強引に引き寄せてくる。急速に縮まる距離に狼狽えつつ、咄嗟に唇を手の甲で遮ると、無意味な抵抗だと嘲るようにシギが瞳の奥を覗き込んで、
「俺も苦労した」
 嘯いた。
「お前の場合は悪意だろ」
 気まずく目を逸らして、軽口に強がりを込める。
 付き合いが長くなっても、本音を探るような視線だけは未だに苦手だ。フユトが無意識に用意する盾や鎧を看破して、柔らかい部分だけを的確に愛撫するようなシギのコミュニケーションだけは、絶対に慣れない。
「だからわからせてやっただろ」
 昨夜の獣性を彷彿させる目で、シギが言う。昏いだけのシギの瞳が欲にギラつく瞬間が、好きなのだと実感させられる。
「お前は何が好きなんだっけ?」
 囁くような声音なのに、耳元で命じられたかのような衝撃だった。昨夜の延長戦が始まりそうな予感に、背筋が震えて吐息が漏れる。リビングが暗くて助かった。きっともう、耳まで赤い。
 自分で自分を追い詰めてしまわないよう、深く呼吸して立て直す。キスされそうな距離のシギを真っ向から睨み返しつつ、
「……シギが、」
 いつか必ず、その喉笛を掻き切ってやると思いながら、
「……すき」
 ほんのり冷たい額に、火照った額を合わせ、きつく目を閉じて、か細い声を紡ぐので精一杯だった。
 遠くで落雷の音がした。地底から震えるような地鳴りがする。雨音はますます激しい。世界が終わる。よく知る世界が終わりを告げて、新しい夜明けを連れてくる。
 雨の季節が終わろうとしていた。




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