リリィ。-1
文字数 2,200文字
「ぅげ、」
思わず奇声を発しながら足を止めると、半歩後ろを歩いていたシギの身体が肩にぶつかる。ターミナル駅付近で人通りも多いのに急に立ち止まるな、とシギの怪訝な視線が数メートル先のホテル入口へ向いた途端、その背中がフユトを隠すように前へ出た。
「あら。」
あちらも二人に気づいたらしい。赤いルージュを引いた唇が、うっとりと微笑む。
通りを行く男が何人も、彼女の微笑みに視線を吸い寄せられていた。何も知らなければモデル級の美女の思わせぶりな笑みに見えるだろうが、あれはシギに次ぐ悪魔だと、フユトは身をもって知っている。
「何の用だ」
ホテルの入り口に姿勢よく立つ彼女を、仕事熱心なドアマンたちもチラチラと気にしている。男として気持ちはわかるが、あれの本性はリリスだ。神が創り給うた最初の男に跨った悪女。
シギが声を掛けながら歩み寄ると、彼女は更にうっとりと蕩けるように笑いながら、凍りつくフユトを流し見て、
「デートの邪魔してごめんなさい、わたしはあの子に用があるの」
命知らずにも、上司であり暴君たる大魔王を挑発した。
シギが発する殺気のせいで、こちらまで意味もなく萎縮してしまうのに、彼女は尚も笑みを崩さない。あの魔王の冷酷──に変じているだろう──な視線を受け止めて、挑発をやめない辺り、やはり彼女は艶然とした魔女だと思う。
もうすぐ帰り着くところだったのに、別のところへ帰りたい。と、フユトがうんざりしていると、
「……話がわかる人で良かったわ」
不穏な声がして、トーカがにこやかに振り向いた。
保証金とやらでたんまり儲ける算段でもつけたのだろうか。泣く子も黙るサディストが二人揃えば、何をされるかわかったものじゃない。
「お、れ、用事あったの忘れてた」
「フユト」
本能的な危機感で、脱兎のごとく逃げ出そうとしたフユトを、シギの
いくら冬が終わりかけたとはいえ、まだ暑くはない季節だ。冷や汗が止まらないフユトは二人をぎこちなく振り向いて、縄師と調教師の姿をそれぞれ認めると、がっくり肩を落とすしかなかった。
「パートナーを探そうと思って」
緩やかに暖房が効いた室内で、相変わらずのスタイルの良さをタイトな服で見せつけながら、珈琲を飲み下した彼女が言った。思わず噎せたフユトに構わず、
「それで?」
シギが静かに先を促す。
成金や資産家夫人たちがアフタヌーンティーを楽しんで談笑するような、静かなラウンジだ。さすがはシギ所有の高級ホテルだけはある。
日没を控えた午後五時にもなると、チェックインの客ばかりが多く、ロビーには微かな喧騒が訪れる。しかしそれはロビーでの話で、隣接するラウンジの密談に影響はない。噎せたフユトが赤くならなければならなくなる。
トーカは外を行く人の流れを興味もなく眺めながら、何かを思案するように間を置いた。
「わたしも歳なのよ、わかるでしょう」
そして、蕾が綻ぶように微笑む。
「誰か一人に愛されるより、誰か一人を愛したいのよ」
シギとトーカの間でかわされる、達観した大人同士の会話を聞きながら、フユトは口を挟めずにいる。どうしたって、トーカとパートナーの関係は、シギと自分のようなものを想像してしまう。
彼女はそれを仕事にするほどなのだから、きっとプライベートもそうなのだろう。
「この人の知り合いは好みが合わなそうだから、貴方に紹介してもらいたいのよ」
不意に水を向けられて、フユトは左側の一人掛けソファに座るトーカを見た。
「え?」
考え事をしている間、二人でどんなやり取りをしたのか聞いていなかった。
正面に座るシギが軽く頷く。そういうことだ、と示されても、何がどういうことになったのか、全くわからない。
何はともあれ、トーカに紹介できるような知り合いなどいただろうか。
「可愛い子でお願いね」
知り合いの顔を片っ端から浮かべるフユトに、トーカが口元だけで笑いながら圧を掛けてくる。こういうところはシギとそっくりで、落ち着いて考えられる気がしない。
いつだったか、二人の目の前で殴り合いを始めそうになったあいつ──狂犬と総帥に可哀想なほど恐れおののき、今はフユトに使いっ走りにされている哀れな男だ。甘い顔で女ウケはいいものの、セイタとかいう冴えない名前だったはず──はマゾではなさそうだが、気迫で相手を圧倒するタイプでもない。顔色を見るのと太鼓持ちは得意なようだから、この仕事でなくてもそこそこやれるだろう。が、あんな男はトーカと並ぶと霞んでしまうし、トーカの女としてのプライドを傷つけかねなくなってしまう。かと言って、ポーカー仲間のヒモクズ男を宛てがうのは幾ら何でもどうかと思うし、可愛い部類の顔立ちのアゲハはバイセクシャルかどうかわからない。
「……俺に可愛い知り合いがいると思うか?」
いろいろ頭に浮かべて却下し続け、堪らずフユトはトーカ本人に聞く。涼し気な顔でフユトの懊悩を見守っていた彼女は、あら、と呟くと、
「人の話はちゃんと聞くものよ」
フユトを総毛立たせる綺麗な笑みで答えた。
思わず、救いを求めてシギを見る。トーカと同類の彼なら、自分の飼い犬の危機に反応してくれるかも知れない。が、そこはしかし、フユトの性癖を熟知するシギだ。甚振られておけ、と、僅かに細めた瞳で告げる。
思わず奇声を発しながら足を止めると、半歩後ろを歩いていたシギの身体が肩にぶつかる。ターミナル駅付近で人通りも多いのに急に立ち止まるな、とシギの怪訝な視線が数メートル先のホテル入口へ向いた途端、その背中がフユトを隠すように前へ出た。
「あら。」
あちらも二人に気づいたらしい。赤いルージュを引いた唇が、うっとりと微笑む。
通りを行く男が何人も、彼女の微笑みに視線を吸い寄せられていた。何も知らなければモデル級の美女の思わせぶりな笑みに見えるだろうが、あれはシギに次ぐ悪魔だと、フユトは身をもって知っている。
「何の用だ」
ホテルの入り口に姿勢よく立つ彼女を、仕事熱心なドアマンたちもチラチラと気にしている。男として気持ちはわかるが、あれの本性はリリスだ。神が創り給うた最初の男に跨った悪女。
シギが声を掛けながら歩み寄ると、彼女は更にうっとりと蕩けるように笑いながら、凍りつくフユトを流し見て、
「デートの邪魔してごめんなさい、わたしはあの子に用があるの」
命知らずにも、上司であり暴君たる大魔王を挑発した。
シギが発する殺気のせいで、こちらまで意味もなく萎縮してしまうのに、彼女は尚も笑みを崩さない。あの魔王の冷酷──に変じているだろう──な視線を受け止めて、挑発をやめない辺り、やはり彼女は艶然とした魔女だと思う。
もうすぐ帰り着くところだったのに、別のところへ帰りたい。と、フユトがうんざりしていると、
「……話がわかる人で良かったわ」
不穏な声がして、トーカがにこやかに振り向いた。
保証金とやらでたんまり儲ける算段でもつけたのだろうか。泣く子も黙るサディストが二人揃えば、何をされるかわかったものじゃない。
「お、れ、用事あったの忘れてた」
「フユト」
本能的な危機感で、脱兎のごとく逃げ出そうとしたフユトを、シギの
あの
声が呼び止める。屈辱と恥辱を煽られると感度を上げるフユトに、恥ずかしい命令をするときの、あの声が。いくら冬が終わりかけたとはいえ、まだ暑くはない季節だ。冷や汗が止まらないフユトは二人をぎこちなく振り向いて、縄師と調教師の姿をそれぞれ認めると、がっくり肩を落とすしかなかった。
「パートナーを探そうと思って」
緩やかに暖房が効いた室内で、相変わらずのスタイルの良さをタイトな服で見せつけながら、珈琲を飲み下した彼女が言った。思わず噎せたフユトに構わず、
「それで?」
シギが静かに先を促す。
成金や資産家夫人たちがアフタヌーンティーを楽しんで談笑するような、静かなラウンジだ。さすがはシギ所有の高級ホテルだけはある。
日没を控えた午後五時にもなると、チェックインの客ばかりが多く、ロビーには微かな喧騒が訪れる。しかしそれはロビーでの話で、隣接するラウンジの密談に影響はない。噎せたフユトが赤くならなければならなくなる。
トーカは外を行く人の流れを興味もなく眺めながら、何かを思案するように間を置いた。
「わたしも歳なのよ、わかるでしょう」
そして、蕾が綻ぶように微笑む。
「誰か一人に愛されるより、誰か一人を愛したいのよ」
シギとトーカの間でかわされる、達観した大人同士の会話を聞きながら、フユトは口を挟めずにいる。どうしたって、トーカとパートナーの関係は、シギと自分のようなものを想像してしまう。
彼女はそれを仕事にするほどなのだから、きっとプライベートもそうなのだろう。
「この人の知り合いは好みが合わなそうだから、貴方に紹介してもらいたいのよ」
不意に水を向けられて、フユトは左側の一人掛けソファに座るトーカを見た。
「え?」
考え事をしている間、二人でどんなやり取りをしたのか聞いていなかった。
正面に座るシギが軽く頷く。そういうことだ、と示されても、何がどういうことになったのか、全くわからない。
何はともあれ、トーカに紹介できるような知り合いなどいただろうか。
「可愛い子でお願いね」
知り合いの顔を片っ端から浮かべるフユトに、トーカが口元だけで笑いながら圧を掛けてくる。こういうところはシギとそっくりで、落ち着いて考えられる気がしない。
いつだったか、二人の目の前で殴り合いを始めそうになったあいつ──狂犬と総帥に可哀想なほど恐れおののき、今はフユトに使いっ走りにされている哀れな男だ。甘い顔で女ウケはいいものの、セイタとかいう冴えない名前だったはず──はマゾではなさそうだが、気迫で相手を圧倒するタイプでもない。顔色を見るのと太鼓持ちは得意なようだから、この仕事でなくてもそこそこやれるだろう。が、あんな男はトーカと並ぶと霞んでしまうし、トーカの女としてのプライドを傷つけかねなくなってしまう。かと言って、ポーカー仲間のヒモクズ男を宛てがうのは幾ら何でもどうかと思うし、可愛い部類の顔立ちのアゲハはバイセクシャルかどうかわからない。
「……俺に可愛い知り合いがいると思うか?」
いろいろ頭に浮かべて却下し続け、堪らずフユトはトーカ本人に聞く。涼し気な顔でフユトの懊悩を見守っていた彼女は、あら、と呟くと、
「人の話はちゃんと聞くものよ」
フユトを総毛立たせる綺麗な笑みで答えた。
思わず、救いを求めてシギを見る。トーカと同類の彼なら、自分の飼い犬の危機に反応してくれるかも知れない。が、そこはしかし、フユトの性癖を熟知するシギだ。甚振られておけ、と、僅かに細めた瞳で告げる。
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