I missed U.-2

文字数 2,516文字

 そんな日々が一年ばかり続いた頃。
 定時を迎えたオオハシが帰り支度を始めたから、地下の訓練場に立ち尽くしたまま、大きな背中が荷物を纏めるのを眺めていた。いつもと何一つ変わらない光景なのに、この男とは週末を挟んで二日も会えないのだと思うと、どういうわけか、心臓がぎゅっとした。不思議な心地になりながら、シギは手を伸ばし、オオハシの上衣の裾を掴んでみた。汗で湿る布の感触なんて、気にもならなかった。
「……急にどうしたんだい」
 驚いたように振り向いた大男はすぐに、目元をくしゃりと綻ばせて笑う。真っ直ぐ見上げるだけのシギが何も言わないでいると、彼はその、熊のように大きな手で頭をポンポンと撫でて、
「明日、砂地の向こうの海に行こう」
 目線の高さを合わせながら、やんちゃな少年のようなことを言う。
「オヤジさんには俺から話しておくよ」
 シギは否定も肯定もしないで、ただただ、オオハシを見つめていた。心臓がぎゅっとしたら、いつでも頼っておいでと言いたげな瞳を。
 その感覚と感情の名をシギが知るのは、まだ少し先だったけれど、そのときの子どもにはそれで充分だった。
 奪われ続けた子どもは、やがて、奪う者になった。
 冷笑しながら命乞いを踏みにじる、血も涙もない化け物に。
 全ての感覚が凍てつく瞬間がある。体内に流れる血も、それを送り出す心臓も、吐息も、脳内を走る電気信号も、シナプスからの分泌物も、全て。その感覚に浸ったとき、シギはより残酷で残忍な怪物になる。元より人を真似て擬態する生き物で、父代わりだった部下より受け取ってきたものを模倣することで周囲を欺けるけれど、彼の本性は感覚も感情もない破壊者そのものだ。ケダモノめいた勘と無痛の身体で反逆者を一掃し、一刻の興奮に酔うだけの半端な無法者の頂点に君臨する、圧倒的な人ならざる者。
 奪われ続けたからなったのではない。彼はきっと、元からそうだ。血腥い世界で呼吸し、殺戮のみに陶酔する、生粋の化け物だった。そうでなければ──記憶はなくとも──瀕死の身体で実母を滅多刺しになどしないだろうし、自らをレイプする男の喉笛を噛み切ることもなかっただろう。
 孤高に生き、やがて誰かに征伐されるのを待つだけだった化け物の手を取り、視線を奪った子どもがいる。
 今は傍らで軽薄に笑ったり、恐れを知らぬ軽口をほざいたりするものの、奈落の底で蠢くしかなかった化け物に臆することなく手を伸ばし、無意識下の孤独と寂寞に触れて、お前の弱さもお前らしさだと教えた、唯一の受け皿。生まれたときからずっと探していたものに巡り会えたような衝撃は、ドロドロに凝った実体のない化け物を脆弱な人たらしめ、惨めで醜悪で腥い執着を与え、枷にもならない首輪を付けた。
 飼い慣らされているのはどちらだろう。
 と、たまにわからなくなることがある。
 壁に、ベッドに、ソファの座面に、床に、押し付けて両腕で閉じ込め、グチャグチャになるまで追い詰めるのはシギなのに、絡み合う指を強く握り返し、奉仕を命じるのはいつだってフユトだ。化け物のありのままを受け入れ、怯えることなく正面から睨み据え、シギに内在する弱さだけを刺激しながら、その全てを寄越せと強請る傲慢な恋人。
 こんな日が来ることを、過去を喪って目覚めたばかりの子どもは知らなかったのに、空っぽだった器はいつの間にか満ちていて、彼はもう、奪われることも失うこともなかった。悪運によって生かされたとしか思えない命を必然だと思えるようになったのは、他でもない、傍らに寄り添う三十六度だ。飼い主の命令に忠実な番犬でありつつ、気まぐれな猫のように下僕を侍らせる。
 お前でなければ駄目なのは、俺の方だ。
 言葉にはしないけれど、シギはいつだって、フユトの背中に訴える。
 嵐の夜に大事なものを奪っておきながら、最低で最悪の環境に叩き込んでおきながら、悪びれることなく、詫びもせず、のさばっているのに。
「は?」
 いつだったか、フユトに白状したことがある。母親を殺して廃墟群に追いやった事実を。憎まれて、恨まれて、せっかく掴んだ腕を放すことになるのだろうと覚悟していたのに、フユトの反応は怪訝や胡乱を通り越し、
「だから?」
 呆れていた。
「お前が自分で狩ったわけじゃねーんだろ、だから離れたいとかほざくつもりならぶっ殺すからな」
 剣呑に啖呵を切ってから少しして、耳の縁を赤くしたフユトが勢いで口走った言葉を後悔する前に、
「お前が泣こうと喚こうと、手放すつもりはない」
 右の口角を持ち上げて、不遜に宣う。
「何処に逃げても追い詰めてやるから、安心しろ」
 振り向いたフユトはすぐに目を伏せて視線を逸らし、
「……それで安心しろっておかしいだろ」
 ぼやいた。
 おかしくなんかない。
 強姦魔よろしく、フユトの頭上で両手を片手だけで押さえ込み、反発の言葉は全て口腔で受け止める。
 シギの弱さに負けず劣らず寂しん坊で、甘えたがりのお前は、蜜壷で溺れていないと急に泣きそうになるくせに。
「シギ、」
 両手を押さえ込まれたまま、フユトは被さるシギを見上げて、切なさの極みに立たされたような掠れ声で名前を呼ぶ。
「手ェ、放せって」
 懇願に、何故、と無言で首を傾げてやると。
「手、回したい、から」
 何処に、と尋ねるように見つめてやる。
 ひたすら甘えたいときに、甘やかされたいときにフユトが見せる、生理的に潤んだ瞳を泣きそうに細める癖が、心から愛しい。
「背中……」
 そこまでどうにか口走って、堪えきれないように目を閉じるのも、
「全部、言わせんな、ばか」
 甘ったれな口調で口走る、僅かに舌足らずな罵倒も、何もかもが愛しい。殺してしまいたくなるくらい、いとしい。
 食べてしまいたい。比喩ではなく、物理的に。頭を撃ち抜くか頚を絞め落として殺したあと、死体を誰にも見せないよう、永久に囲い込んでしまえるよう、一番柔らかいハラワタから血の一滴まで、文字通り喰らい尽くしてしまいたい。死したお前の魂さえ取り込んで、永劫に一つになっていたい。
 シギの狂気は腹の底でグルグルと渦巻き、誰に明かされることもなく、フユトの表皮や内臓の奥で弾け、歓喜に咽ぶ恋人を汚して終わる。
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