路傍の花-9
文字数 1,965文字
とんでもない人を好きになってしまったな。
独り寝のアパートで、ボクは泣きながら思う。
ボクに向けられた優しさも、笑みも、穏やかな声や雰囲気も、最初から、全て偽物だったのだ。本当は、利益にならないから売り飛ばすと言われたときに気づけば良かった。あのときも本気で怯えたけれど、過ぎてしまえば、悪質な冗談だったのだと思い込むことで、ボクは傷ついた自分を騙し続けていたのかも知れない。
最初の数ヶ月は、フユトさんと会うたびにつらかった。悪童がそのまま大きくなったような雰囲気か、裏表なんてなさそうな性格か、フユトさんのどこがオーナーを惹き付けるんだろうと考えて、自分の僻みっぽさに嫌気が差す。どうしてオーナーの隣はボクじゃなくてフユトさんなんだろうとか、ボクがフユトさんにないものを身に付けたら返り咲けるだろうかとか。考えるたびに自分で自分を嫌いになって、どうにかなってしまいそうだった。
「アゲハ」
オープン前に準備していると、いつもより早く出勤してきた店子仲間から、声を掛けられた。フユトさんがオーナーのお気に入りだと知らせてくれた、おっとりした彼女だ。
アゲハは、男娼時代のボクの源氏名で、今の通名だ。オーナーからもらった唯一の贈り物。違う名前を名乗ろうかと考えたこともあったけれど、捨てられずにいる。
「おはよう、ツクシ、早いね」
ボクも彼女の源氏名を呼んで、応える。
「最近、元気ないから……心配なの」
小柄な彼女は、バーカウンターのスツールによじ登るようにして座ると、ボクを困った顔で見つめてくる。
接客が主な仕事だから、落ち込んだ雰囲気は出さないようにしていたつもりなのに、同年代で入店時期も同じツクシには、お見通しのようだった。
「そんなことないよ」
流し場で布巾を絞りながら、ツクシは見ずに答える。表情を読まれないぶん、彼女がどんな反応をしたのか見えない。
「そんなことあるよ」
負けじと言い返されて、ボクは思わず彼女を見てしまった。拗ねたように唇を尖らせて、何だか怒っている。
「失恋したの?」
彼女は怒り顔を悲しげな顔に変えて、小首を傾げながら聞いてきた。ボクは黙ったままだ。
「アゲハ、オーナーのこと好きだもんね、あたしが余計なこと教えたから?」
ずくん、と心臓が疼いた。抜けない棘が刺さったままの鋭利な痛み。ジュクジュクと濡れる新鮮な傷口は、まだ瘡蓋も出来なくて、完治までが遠い。
ボクの表情が曇ったのだろう。ツクシのほうが泣きそうな顔をしながら、
「言わなきゃ良かったんだよね、知らないままのほうが幸せなこともあるよね、ごめんね」
謝るから、ボクは深く俯いたまま、彼女に対して首を振る。
「知らなかったら、もっと傷ついてたと思うよ」
申し訳なさそうな顔をするツクシに、ボクは無理に作った笑みを張り付けて、
「それに、ボク、オーナーに好かれることなんて、ないと思ってたから」
だから傷ついてなんかいないんだと、半ば自分に言い聞かせるように告げた言葉に、ツクシはまた怒り顔をした。
「嘘つき」
ぴしゃりと告げられた一言に、ボクは何も言い返せない。
「あなた、自分の命を賭けてもいいってくらい、オーナーのこと好きだったのに、そんな簡単に諦められるわけないじゃない」
ボクより二つ歳下なのに、ツクシの言葉には力がある。ボクは、自分と、周囲に対してついていた嘘を、欺瞞を、突きつけられる。
ある日、偶然ぶつかりそうになった人。闇に溶けるような髪と服、腕を埋め尽くす墨が印象的だった人。今にも壊れてしまいそうな脆弱さと、全てを壊し尽くしても足りない衝動を同居させた、危険な香りのする人。いいこ、と、お腹の底に響くような声で褒めてくれた人。
鼻の奥がツンとした。
何の取り柄もないボクを見出してくれた人。ここで生きていてもいいんだと、呼吸の仕方を教えてくれた人。意に沿わない人間には冷酷だけど、努力は認めてくれる人。愛する人を見つめる眼差しが、限りなく深くて優しい人。
視線の先には、ボクが居たかった。
「叶わなくても、諦めることはないんじゃない」
俯いて、涙を堪え、必死に奥歯を噛み締めていると、ツクシがぽつんと告げた。
「いつか、アゲハが誰かをもっと好きになるまでは、諦めなくてもいいんじゃない」
そんな人、現れるだろうか。不確定な未来を信じてみるのは勇気がいるし、期待したぶん、絶望は深いかも知れない。でも、それでも、いつかボクの傍らに寄り添う人は笑顔の似合う人で、ボクの良いところも駄目なところも、ボクらしいと言ってくれる人がいい。ボクに何を期待しているのか言葉にして伝えてくれて、あの人のように穏やかな声で、いいこ、と言ってくれたらそれでいい。
その時が来るまでは。嫋やかに見えて、強かに育つ、雑草と一括りにされる、路傍の花でいたい。
【了】
独り寝のアパートで、ボクは泣きながら思う。
ボクに向けられた優しさも、笑みも、穏やかな声や雰囲気も、最初から、全て偽物だったのだ。本当は、利益にならないから売り飛ばすと言われたときに気づけば良かった。あのときも本気で怯えたけれど、過ぎてしまえば、悪質な冗談だったのだと思い込むことで、ボクは傷ついた自分を騙し続けていたのかも知れない。
最初の数ヶ月は、フユトさんと会うたびにつらかった。悪童がそのまま大きくなったような雰囲気か、裏表なんてなさそうな性格か、フユトさんのどこがオーナーを惹き付けるんだろうと考えて、自分の僻みっぽさに嫌気が差す。どうしてオーナーの隣はボクじゃなくてフユトさんなんだろうとか、ボクがフユトさんにないものを身に付けたら返り咲けるだろうかとか。考えるたびに自分で自分を嫌いになって、どうにかなってしまいそうだった。
「アゲハ」
オープン前に準備していると、いつもより早く出勤してきた店子仲間から、声を掛けられた。フユトさんがオーナーのお気に入りだと知らせてくれた、おっとりした彼女だ。
アゲハは、男娼時代のボクの源氏名で、今の通名だ。オーナーからもらった唯一の贈り物。違う名前を名乗ろうかと考えたこともあったけれど、捨てられずにいる。
「おはよう、ツクシ、早いね」
ボクも彼女の源氏名を呼んで、応える。
「最近、元気ないから……心配なの」
小柄な彼女は、バーカウンターのスツールによじ登るようにして座ると、ボクを困った顔で見つめてくる。
接客が主な仕事だから、落ち込んだ雰囲気は出さないようにしていたつもりなのに、同年代で入店時期も同じツクシには、お見通しのようだった。
「そんなことないよ」
流し場で布巾を絞りながら、ツクシは見ずに答える。表情を読まれないぶん、彼女がどんな反応をしたのか見えない。
「そんなことあるよ」
負けじと言い返されて、ボクは思わず彼女を見てしまった。拗ねたように唇を尖らせて、何だか怒っている。
「失恋したの?」
彼女は怒り顔を悲しげな顔に変えて、小首を傾げながら聞いてきた。ボクは黙ったままだ。
「アゲハ、オーナーのこと好きだもんね、あたしが余計なこと教えたから?」
ずくん、と心臓が疼いた。抜けない棘が刺さったままの鋭利な痛み。ジュクジュクと濡れる新鮮な傷口は、まだ瘡蓋も出来なくて、完治までが遠い。
ボクの表情が曇ったのだろう。ツクシのほうが泣きそうな顔をしながら、
「言わなきゃ良かったんだよね、知らないままのほうが幸せなこともあるよね、ごめんね」
謝るから、ボクは深く俯いたまま、彼女に対して首を振る。
「知らなかったら、もっと傷ついてたと思うよ」
申し訳なさそうな顔をするツクシに、ボクは無理に作った笑みを張り付けて、
「それに、ボク、オーナーに好かれることなんて、ないと思ってたから」
だから傷ついてなんかいないんだと、半ば自分に言い聞かせるように告げた言葉に、ツクシはまた怒り顔をした。
「嘘つき」
ぴしゃりと告げられた一言に、ボクは何も言い返せない。
「あなた、自分の命を賭けてもいいってくらい、オーナーのこと好きだったのに、そんな簡単に諦められるわけないじゃない」
ボクより二つ歳下なのに、ツクシの言葉には力がある。ボクは、自分と、周囲に対してついていた嘘を、欺瞞を、突きつけられる。
ある日、偶然ぶつかりそうになった人。闇に溶けるような髪と服、腕を埋め尽くす墨が印象的だった人。今にも壊れてしまいそうな脆弱さと、全てを壊し尽くしても足りない衝動を同居させた、危険な香りのする人。いいこ、と、お腹の底に響くような声で褒めてくれた人。
鼻の奥がツンとした。
何の取り柄もないボクを見出してくれた人。ここで生きていてもいいんだと、呼吸の仕方を教えてくれた人。意に沿わない人間には冷酷だけど、努力は認めてくれる人。愛する人を見つめる眼差しが、限りなく深くて優しい人。
視線の先には、ボクが居たかった。
「叶わなくても、諦めることはないんじゃない」
俯いて、涙を堪え、必死に奥歯を噛み締めていると、ツクシがぽつんと告げた。
「いつか、アゲハが誰かをもっと好きになるまでは、諦めなくてもいいんじゃない」
そんな人、現れるだろうか。不確定な未来を信じてみるのは勇気がいるし、期待したぶん、絶望は深いかも知れない。でも、それでも、いつかボクの傍らに寄り添う人は笑顔の似合う人で、ボクの良いところも駄目なところも、ボクらしいと言ってくれる人がいい。ボクに何を期待しているのか言葉にして伝えてくれて、あの人のように穏やかな声で、いいこ、と言ってくれたらそれでいい。
その時が来るまでは。嫋やかに見えて、強かに育つ、雑草と一括りにされる、路傍の花でいたい。
【了】
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