Thx, I love you.-6

文字数 2,121文字

 少年は露骨に警戒することをしない。静かに、密かに、息を潜めて気配を殺し、周囲に察知されまいとすることで、彼を脅かす様々な脅威から身を守ろうとしてきたのだろう。そして、それは獣としてはある種、正しい選択だ。爪と歯以外の武器を持たない非力な獣の、最大の防御だ。
 しかし、弱いと侮ってはいけない。他者を害する力を持ちうるからこそ、少年は誰かに加害されたくないだけだ。オオハシがそれを実感したのは、少年の利き手の掌をナイフが貫通したにも関わらず、痛みに呻くことのない彼の姿を見たときだった。
 感覚鈍麻。
 先天的か、壮絶な虐待を経験したからこその副産物か。
 ナイフが貫通したのは事故だ。暴力を受けこそすれ、振るう側に立つことなど考えられない華奢な少年を訓練することがオオハシの本分だから、刃先を寸止めするつもりで向けたのに、僅かに加減を誤ってしまった。
 痛かっただろう、と声を掛けようとして息を呑む。闇を湛えるように虚ろな少年の瞳が、不穏な光を宿している。背筋に冷たいものを宛てがわれたような感覚への本能的判断で、オオハシは思わず、立ち尽くす少年から距離を取った。
 少年が掌のナイフを抜く。栓を失った傷口から流れる血が、少年の腕を、床を汚す。
 実の母と、その恋人を滅多刺しにして殺し、レイプ犯の喉笛に喰らいついて殺したというケダモノが、そこにいる。
 無害を装って獲物を誘き寄せ、捕食する狩猟者(ハンター)。効率のいい狩りの手段を、この少年も心得ている。無力な被害者を装って誘き出した加害者を、自身の愉悦に沿って殺すために。
 否、違う。
 身構えたオオハシは防御を解く。
 彼が自ら望んでそうしているかは与り知らぬことだけれど、尊厳を奪われ、悉く打ちのめされて来たからこそ、そうなってしまった部分は少なくないだろう。他者を害することでしか、少年は悲鳴を上げられなかったのかも知れない。
「痛かったな」
 刺される懸念はあったものの、オオハシは、血を流す少年の華奢な身体を静かに抱き寄せ、傷ついた手を取って、止血のために手首を握った。薄い肉付きを通して骨に触れる。脆い感触が胸に痛い。
 愛されるために生まれてきたのに、これはあんまりだ。人になれなかった少年は、今をどう感じているだろう。ここで生きていることに、喜びを感じることはあるのだろうか。生まれて来なければ良かったと、ひたすら自分を呪っているだろうか。
「ごめんな」
 大きな手で頭を撫でる。誰かの腕に抱かれることを知らない少年は身体を限界まで強ばらせ、オオハシに何をされるのかと緊張したようだったけれど、頭を何度か撫でられるにつれて緊張を解き、恐る恐る、硬くて広い背中に片腕を回して、
「……へいきだよ」
 ぽつりと言った。
 痛みを感じにくいにしても、こういうときは詰って欲しい。何をされても感じないからずっと平気だったと、傷だらけの姿で言われてしまったら、慰めることもできないじゃないか。
「なぁ、シギ」
 誰かに抱かれる安心感を知らない少年の名を呼んで、
「こういうときは責めていいんだ」
 刺してしまったオオハシのほうが苦しげに眉を寄せるのを、彼は黙って見つめていた。
 あの少年が大人になった今、部下として雇われるオオハシには、様々なことが感慨深い。今でも表情や感情表現には乏しくとも、彼は自ら発話するし、支配者としての存在感と共に尊大さも増した。愛する誰かを傍らに置き、歪な愛情を注ぐ程度には他人を信頼してもいる。
 但し、彼は人にはなり切れなかった。若かりしオオハシが地道に注いできたものを受け取りはしたけれど、人間の真似が器用にできるので露見しないというだけで、その本性はケダモノと変わらない。
 しかし、それでも良かったのかも知れない。ある日、突然、何も言わずに姿を消して生死不明の音信不通になるよりは、今のままでも生きていてくれることが、あの少年を知るオオハシの微かな喜びでもある。
「明日は休め」
 過去を思い出すたびに、俺も歳を取ったな、と感慨に耽るオオハシに、シギが唐突に告げた。
 右ハンドルの運転席でぼんやりしていたものだから、何度も声を掛けているのに反応がなくて、遂に耄碌したとでも思われただろうか。
 バックミラーで向かって左側の後部座席を見る。表情のない上司が真っ直ぐにこちらを見つめている。
 いや、しかし──言おうとして、
「そろそろ一年じゃなかったか」
 上司の言葉に、言うべき言葉を見失った。
 オオハシが母を亡くして、確かに一年になろうとしている。他人のことに興味や関心を持たない上司は忘れていると思っていたし、オオハシ自身も亡き母に何かをしようと思っていたわけじゃない。だから休みを希望しなかったのに、無神論者のような上司のほうから言い出すことがあるなんて。
 鋭くクラクションが鳴らされた。気づくと、前の車との車間距離が随分開いている。
 その気持ちをどう言葉にしたらいいか、オオハシにはわからない。鼓動が震えて乱れたけれど、それはきっと、歓喜と呼ぶべきだ。
「……えぇ、そうさせてもらいます」
 静かにアクセルを踏みながら、オオハシは答える。
 ようやく──ようやくだ。傷だらけのケダモノは、少しだけ、人になった。





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