リリィ。-4

文字数 2,346文字

 あいつも幸せになれたのか、良かった良かった、で、全てが終わるはずだった。フユトがうっかり失念していたのは、トーカは女版のシギだという、その一点だけだった。
 自分のことに頓着せず、その他大勢には関心を寄せず、子どもが虫や蛙を殺すような純粋さで退屈凌ぎに手駒と戯れ、人体を如何に細かく粉砕できるかしか考えていないようなサイコパスでも、フユトのことになると途端に、ストーカーも真っ青な執着ぶりで行動範囲も行動パターンも掌握して粘着するのだ。甘やかな蜜を装った猛毒に浸され、ドロドロに溶けてもまだ甘やかされて、出口のない闇の底を天国だと勘違いしてしまうように仕向けられたフユトに退路はない。
 つまり、強かな毒婦であるトーカも、同じだ。
 ミコトから久しぶりに会って話がしたいと言われたのは、長雨の季節の入り口だった。そぼ降る雨が鬱陶しく、積極的に外出しようと思えない外気の不快指数を避け、今年もシギの牙城に我が物顔で篭ろうかと考えていた矢先のことだった。
 その日はたまたま雨の止み間で、空は薄曇りだった。幸先いいと思えたのはシギの部屋を出て待ち合わせ場所に向かうまでで、トーカの不自然なほどに完璧な笑みを目にした途端、シギに対するそれと同じ警報が脳裏に響いた気がした。
「……それで、話って?」
 思わず及び腰になってしまうのは仕方ない。
 移動しながら話しかけるフユトに、トーカはやはり、誰もが見惚れるような笑みで振り向く。
 怒髪天を衝くと綺麗に笑うのは付き合いの長いサイコパスの特徴だけれど、こいつもそうなのかとフユトは肩を落とす。そして、何か逆鱗に触れるようなことをしただろうか、そもそも普段は接触すらしないのに地雷を踏むことなどあるだろうかと煩悶し、渋面になる。
「あの子を待たせてるの、話はそれからよ」
 愉しげに目を細めてフユトの渋面を見やるトーカは綺麗に笑ったままで、個室や密室に向かわれたら何をされたものかわからない。フユトがぞっとしたように首を竦ませると、彼女はクスクス笑い、
「貴方が心配するのはわたしじゃなくて飼い主よ」
 と、意味深に言ってのけた。
 どうしてシギが話に出てくるのか、フユトには心当たりもなければ見当もつかない。シギの名前を出して逃げ帰る選択に先手を打たれた以上、フユトはますます眉間の皺を深くして、曲線美を描く背中について行く他なくなる。
 不幸中の幸いと言うべきか、ミコトが待っていたのは最初にトーカを紹介したカフェのオープンテラスで、周囲の耳目がある場所だった。だからと言って安心はできないが、一先ず、フユトの性癖を逆手に取られるようなことはないと胸を撫で下ろす。
 心細げな顔で待っていたミコトは、トーカの後ろに従わざるを得ないフユトを見つけた途端、更に泣きそうに表情を歪めるから、もしかするとこれはもしかするかも知れないと、フユトの足取りはより重くなる。ほっとしたのは一瞬で、フユトはトーカの冷たい指先に心臓を掴まれた心地になる。
「それで、」
 テラスの四人席のウッドチェアに座って、トーカが徐に切り出した。梅雨の中休みとはいえ、決して肌寒くはない季節なのに、フユトの背中は鳥肌が立ったままだ。
「貴方とこの子はどういう関係だったの?」
 ほら、来た。フユトは隠しもせずに嘆息する。
 ミコトと何かあるのではないかと疑ったシギも、同じ声色で、同じ冷たさの視線で、フユトを束縛しようとしたのだ。それまでも、シギの束縛具合はたまに重く感じていたが、あれ以来はますます酷い。けれども、フユトは救いようのない寂しがり屋なので、これくらいが丁度いい程度に思っている。まして、こんなに束縛して執着するシギだからこそ、他の誰かに気をやることはないと安心してもいる。
 ごめんなさい、と顔に書いてあるミコトを見やって、
「どうもこうも、言い寄られたことはあるけど、何もなかったって」
 正直に話した。
 あれから、もう半年も経つのかと思うと、そんなに前なのかと驚いてしまう。シギがあそこまで情緒の安定を欠くとは思わなかったし、ミコトもミコトでフユトを振り回していたから、遠いようで鮮烈な日々だった。楽しくなかったと言えば嘘になるし、フユトはシギから離れることなんて有り得ないとまで思えた。だから、ミコトとは何もなかったのだ。
「ふぅん……」
 しかし、トーカは納得しないようだった。口元は艶やかに微笑んでいるのに、目だけが決して笑わない。嫌な同類がいたものだとフユトはげんなりしている。類は友を呼ぶと言うけれど、これはあんまりだ。
「わたしの可愛い可愛いコトちゃんに指一本触れていないのでしょうね?」
 そんな風に呼ばれているのかと、トーカの傍らで縮こまるミコトをちらりと見て、指一本ではなかったな、と思い出す。一度だけ、思わず手が出てしまったことはあったが、だいぶ加減をした平手打ちだ。まさか、それを話したのか。
 瞬間、フユトは蒼白になったに違いない。得心したように目を細めたトーカに、いやいやあれは、と言おうとして、
「貴方のご主人様にも話は聞いたの、本人に聞けと言われたのだけど、素直に話す気はなさそうね」
 既に外堀も埋められていると知り、愕然とした。
 あの話を蒸し返すのかと、シギはまた不機嫌になるに違いない。パッと見ではわからないものの、内心をドロドロに煮立たせて。
「いや、ちょっと手が出たことはあったけど」
「手が出た?」
 トーカの片眉が上がる。言葉の綾だと言おうとしても、フユトにはどうしたって、弁解など浮かばない。
 前門の虎後門の狼とはこのことだろう。どちらがマシかで考えれば、圧倒的に後者ではあるけれど。
 苛立ち紛れに前髪をくしゃりと乱す。ああ、もう、どうしてあいつの同類はこんなに面倒臭いんだ。
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