喵喵-1

文字数 2,326文字

 にゃあ、と鳴いてみろ。近づいたり離れたり、好きだと言ったり嫌いだと言ったり、機嫌や気分でコロコロと態度や言い分を変えるなら。
 シギの視線に気づいたフユトが振り向く。目と目が合うと、気まずそうに、照れたように目を伏せたあと、視線を戻して、悪戯っ子のように笑った。

  *

 向こうは今、何時だろうか。
 真っ暗な寝室で水底に横たわりながら、フユトは枕元に置いた携帯端末の画面の光を茫洋と眺める。
 ハウンドになりたての頃に文字や数字は読めるようになったものの、誰かと違って学も教養もないから、時差の計算なんかできない。いきなり連絡したらシギの仕事の邪魔になるかも知れないし、この星の何処か違う国で束の間、眠っているかも知れない恋人を起こすのは忍びない。
 もう、二ヶ月は声を聞いていないし、三ヶ月は顔も見ていない。何かの呪文のように長い国名を聞いたけれど、そんなものは一つも頭に残っていない。それが何処にあるかも知らないし、知ろうともしなかったし、知りたくもなかった。
 最後に会ったとき、今回は少し長引くかも知れないと言われた。仕事のトラブルというよりは、国民性の違いに手を焼いている現場で、従業員を指導する立場になるのだという。聞いたときは、そんなものかと思いもしたし、納得したけれど、ひたすら待つだけの時間は永遠のように長い。
 会いたい。
 すり、と枕に頬を寄せる。
 仄かに甘い肌の匂いが恋しい。何かあればいつでも連絡して来いと言われてしまうと、何もなかったら連絡できないじゃないか。
 フユトの我儘や意固地さに、微かに眉尻を下げるシギが見たい。困ったように笑いながら、仕方ない奴だと呆れながら、蛇を刻んだ薄墨色の腕で絞め落とすように抱かれたい。鼓膜に纒わり付くように低く、耳朶を撫でる掠れた声で、甘く名前を呼ばれたい。
 こんなに弱かっただろうか。兄に執着していた頃も、こんな気分になることはあったけれど、それでもまだ強がっていられた気がする。束縛するために力を振るい、痛みと恐怖で支配していた頃は、まだこんなに弱くなかった気がする。
 否。そもそも、気を張っていなければ、潰れてしまいそうだった。独り寝ができないわけじゃなくとも、忍び寄る足音や気配に神経が昂り、眠るに眠れなかった夜を反復するたび、何度、壊れてしまえたら良かったと思ったか知れない。
 立ち尽くすフユトを包み込んだ(かいな)は、血の繋がった兄のものでも、母性に溢れる何処かの女のものでもなかった。屍でできた道を往く孤高の阿修羅、非道と闇を飼い慣らす魔王、蛇のように狡猾で蜘蛛のように賢しい化け物、その人だ。
 瞼を開ける。携帯端末の画面はとうに暗転している。
 燻る肉欲はどうにでもなるものの、眠れない夜の再来はフユトを酷く苛み始めていた。
 会いたい。
 セックスをしない日に額へ触れる、優しい唇の感触が恋しい。フユトが鮮烈に覚えている闇の中の孤独も恐怖も心配することはないと教える、柔らかな「おやすみ」が聞きたい。不寝番は俺がするから眠ればいいと、身体の奥に凝る緊張を解きほぐして欲しい。
 会いたい。
「クローズですよ」
 心配そうな声がして、フユトは顔を上げた。子犬のような顔立ちのバーテンが、声の通りの表情で見つめている。
「……あぁ」
 了承しつつ、フユトが腰を上げることはない。
 少しずつ溶けた氷のせいで、汗をかくロックグラスには、薄まった琥珀色が半分ほども残っていた。
「顔色も良くないし、無理しないで下さいね」
 そう言って、アゲハはフユトの前から離れ、閉店準備に取り掛かる。
 この子犬と最後に関係を持ったのは、もう半年以上も前だ。気まぐれに誘うフユトに終焉を切り出したのはアゲハのほうで、それは彼が慕う想い人とフユト、そしてアゲハ自身のための申し出だったから、フユトも承知したのだけれど。
 でも、アゲハじゃ代わりにならない。
 誰もシギの代わりにはならないと知ってしまった以上、フユトは寂しさや空虚を紛らわす術を失っている。
「お前、あいつとは連絡取ってんの」
 だから聞いてみた。アゲハがバーの経営状況でシギに定期報告をすることは知っていたし、それ以外の連絡も取り合っているようなら、少しでも近況を知りたいと思ってしまった。
 振り向いたアゲハはきょとんと瞬く。
「お店のことでなら、ときどき連絡しますけど」
 自分よりもシギに近しい関係のフユトの問いが不思議だったようで、
「フユトさんは連絡しないんですか?」
 純粋な問いを向けられた。
「……しねーよ」
「どうして?」
「話すことなんかねーだろ」
 苛立たしげに返すフユトに、アゲハが苦く笑う。彼は人の本音を見抜くのが得意だということを、うっかり失念していた。フユトはアゲハより苦い顔になる。
「寂しくならないんですか?」
 聞かれて、言葉もない。
「声を聞くだけの連絡でも、オーナーは怒りませんよ」
 押し黙るフユトの心情を察したようにアゲハは言った。
 そうは言うけれど、簡単なことじゃないのだ。フユトにはフユトなりの矜恃があるし、そんなくだらないことに手間を取らせたくない。そう思いながらも割り切れず、結局、煩悶しているのだから、ちっぽけなプライドなんて捨ててしまえば楽なんだろう。
 さみしい、と言ったら、シギはどんな顔をするだろうか。
「……嫌なんだよ」
 フユトが漏らした言葉に、アゲハはグラスを洗う手を止める。
「女々しい真似すんの、クソみたいだろ」
 シギがどう思うか、なんてことより先に、フユトは自分が許せない。さみしいだの、会いたいだのと口にする弱さも、自力だけでは立っていられないみっともなさも、ダサいの一言で片付く行動は全て、フユトが思うフユトらしさではない。
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