雨季-3

文字数 2,431文字

 それ以上は駄目だ。暑い時期じゃないとは言っても、昼間はミコトに付き合わされていたし、まだシャワーだって浴びていない。微量であっても汗はかいているのだし、その他の匂いのことも考えると、高ぶる体とは裏腹に、気が気ではなくなる。
 それに何より、キスがしたい。
「シギ……、」
 熱い舌があらぬ処に伸ばされる前に、フユトは乱れる息の合間に辛うじて、その名前を呼ぶ。絶対的な支配者で、何より愛しい飼い主の名を。
 顔を上げたシギの目を、ソファの座面に仰向けのまま見つめて、
「キス、したい……」
 か細く告げる。
 いつもは深い咬合から始まる前戯のせいで、まだ触れられていない唇が物寂しかった。シギが飽きるまで口内も舌も蹂躙されたい。吸われて食まれて扱かれて、理性がドロドロに溶けるまで目交いたい。シギとするキスだけは、すごく、すごく好きだから、こちらが飽きるまで永遠に続けて欲しい。
 一人じゃないとわからせて欲しい。
 獣性を帯びたシギの目が、柔らかく細められた。一見、微笑むような表情の変化も束の間、
「まだ、しない」
 甘い声が残酷に突き放す。
 ぞくり、と背筋が震えた。願っても強請っても聞き入れてもらえない、ひたすらつらくて、ひたすら苦しくて、死ぬほど悦いだけの、地獄のような時間が来たと直感した。丁寧に、徹底的に教え込まなくても、この身はもうシギのものなのに、丁重に、隙なく上書きされる、暴虐の時間。
 フユトが一番好きな時間。
 甘やかされるだけでは不安になることを、この男は本人より知り尽くしている。
 形ばかりの反発を難なく抑え込まれて、何度も優位を刻みつけられて、それでもまだ足りないと宣う欲深を、音を上げるまで翻弄して欲しい。
「ふ……ッ」
 想像だけでひくりと揺れ、濡れ始まった先端を、シギの指が下着越しに掻く。押し付けるように腰を浮かせながら、息を飲んで声を堪えたものの、脳の奥から溶け始まる気配がした。
 このままじゃ駄目だとか、事前の準備もしていないこととか、言いたいことはたくさんあるのに、声は言葉になる前に消えていく。思考は欲で塗り潰され、冷静を失って爛れる自分を思い知らされる。
「……っ、シャワー、浴びてねェから」
 それでもどうにか、言葉を紡ぐ。本当は、限界を超えて粗相してしまうくらい追い詰められたいし、肺胞に詰まった酸素も残らず貪られたい。欲求で満たされる思考をようやく回して、言葉を慎重に選んだ。
 キスがしたい。舌が痺れるほど噛みつかれたい。脊髄を甘く疼かせたい。誰の所有物か骨の髄まで刻み込まれたい──ドロドロに煮え立つ欲は告げる。
 でも、まだだ。思考する余裕がなくなるまで追い込まれて、なりふり構わず切願する瞬間が何より気持ちいいことは、充分すぎるほど知っている。
 欲に濡れるフユトの瞳の奥の葛藤まで見透かして、シギの邪な手が離れていく。半端に高められた体は異様に発熱しているようだったけれど、とりあえずの休戦を予感して、フユトは深く息をついた。
 とはいえ、場所がソファの上から浴室に変わっただけで、シギの攻め手が緩むはずもなく。
 浴槽に湯を張っている間に、シャワーの真下で壁を向いて縋る。少しだけ猶予をもらって洗浄した箇所を、シギの指がそっとなぞっていく。周辺の括約筋だけでなく、大臀筋から大腿筋にかけてを解すように、微かな圧力を帯びるのが心地いい。適度な指圧に浸っていると、不意打ちのように舌が背筋を舐め上げるので、そのたびに悪い声が出そうになって震える。
 キスはまだ、一度もしていない。
 触れて欲しい箇所と、徹底的に苛まれたい処と、欲求は幾重にも交錯するのに、言葉には出来なかった。いつものように意地を張っているわけじゃなく、それらよりも上回る欲求が、欲深い本能の天辺で主張している。
 キスがしたい。して欲しい。否、まだだ。もっと焦らされて、気が触れるくらい放置されて、身も世もなく哀願したくなるまでは。でも、したい。絡まりたい。後頭部をしっかり支えられたまま、窒息するほど求められたい。
 ぐるぐると回る葛藤が苦しい。シギが直接的に追い詰めなくても、勝手に追い込まれていく、自縄自縛。
 罰して欲しい。お前には俺だけだと猛毒で洗脳されて、余所見をするなと甚振られたい。支配されたい。所有されたい。噛みつかれたい。ここ以外では生きていけなくなるように躾られたい。
 ぞく、と腰の奥で何かが爆ぜた。
「……()ったな」
 呆然とする耳元で、シギの声が教える。思案している内容だけで極まったらしい。
 脳イキなんてものが実在するのかと思いながら、泉のように沸き上がる唾液を飲み込んで、
「……したい……」
 顔を伏せたまま、どうにか呟く。
「うん?」
 全てを聞き取れなかっただろうシギが甘く聞き返すから、
「キスしたい……」
 強請るだけで泣きそうになった。
 勝手に極まるなと罰を受ける前に。気力だけで吐精を我慢させられる前に。延々と(くじ)られて真っ赤になった粘膜が悲鳴を上げる前に。前からと後ろからの重い愉悦に板挟みされて狂う前に。
 不意に肩を引かれて、シギを振り返る。正面を向くよう誘導されて、背中が壁に当たる。俯けないように顎を掬われて、シギの昏い瞳を見る。
 ふ、と彼の口角が上がった。幼い子どもの失態を見つけて、仕方ないと許容するような笑い方だった。
 シギの瞳に映る自分の顔を見るまでもなく、酷い有り様なのは自覚している。だって、もう、どうしようもない。自分じゃコントロールできない。
「随分、好きだな」
 呆れたように嗤うシギの言葉が、唇と舌を交わす行為を指していることはわかっていたけれど。
「……すき」
 背中に腕を回すと、顎を掬う手が離れていくから、遠慮なく耳元に唇を寄せる。麝香をサプリで飲んでいるのかと聞きたくなるほど、仄かに甘いシギの肌の匂いを、すん、と嗅ぐ。
「好き、」
 目を見て直接は言えなくても、こうして抱きつきながらなら言える。キスが、じゃなくて、シギが好きだ。
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