お気に召しませ。-4

文字数 2,564文字

「……だって、甘やかしてもらうの、好きだから」
 だから、フユトは正直に答える。
「聞き分けのいいフリするより、莫迦なフリしといたほうが、俺のこと構ってくれるから」
 シギが乾いた声で笑った。
「莫迦か、お前は」
 そう言うシギの声に甘さはない。お前にはほとほと呆れた、付き合いきれないと告げる声だった。
「そうやって俺の顔に泥を塗れば、莫迦なお前が可哀想だから飼い続けると思ったのか」
 それを望んでいたわけじゃない。
 フユトは固く唇を閉ざして、深く俯く。
 考えが足りない部分もあったし、物事を噛み砕いて教えてくれる時間が好きな部分もあった。シギの面子を潰すとか、そういう意図は全くない。ただ、多方面の仕事で忙しいシギが僅かでも手を止めて、フユトのために割いてくれる時間が何より好きだったから、募る寂しさや抱える孤独感を埋めてくれるから、引き止めるための手段にしていたところは否めない。
 こればかりは自分でも御せないのだ。胸の奥の空虚は埋まっても、フユトの中で爆発的に膨れ上がる不安感はなくならない。シギが大切に扱ってくれるたび、満たされると同時に不安になって、どうしようもなくなる。
「……もうしないし、もう会わない」
 掠れそうになる声を振り絞る。
「もう迷惑かけない」
 フユトがきっぱり告げると、シギのやけに重たい嘆息が漏れた。
「どうしてお前はそう極端なんだ」
 頭痛がするとでも言いたげにこめかみを押しながら、
「飛ばさないのが難しいなら手を打てと言ってる」
 これだから莫迦は困ると告げる。
 だって、もう要らないとでも言いたげな声で話すじゃないか。自分のことばかりのフユトはこれからもシギの体面や顔を潰し続けるだろうし、その悪癖は治らないかも知れない。そのたびにこうして肝まで冷えるほど怒られるより、離れてしまったほうがお互いのためで、結局、フユトはまた自分の身のことしか考えられなくて、本当に嫌になる。
 どうしようもないんだ。根深い恐怖は何をしたって消えない。大事にされるたび、甘やかされるたび、鮮烈に焼き付いて、シギの気持ちを試してしまう。救えない。救われない。
 でも。それでも、本当は──
 深く俯いて見つめる足先に、ぽたりと滴が落ちた。
「……泣くな」
 これだから嫌になる、と如実に語るシギの声がする。
 何年も前に一度だけ、これは終わったと感じたことがあったけれど、今回はその比じゃない。あのときも自分から離れようとしたけれど、引き止めるシギの声はどこまでも甘かった。執念深いシギからフユトの手を放すことなんてないと高を括って、甘えて、傷つけて、それでも好きだなんて言えるはずがない。言われるはずもない。でも、好きだった。フユトはシギが、かけがえのないくらい、好きだった。
 泣いてない、と緩やかに首を振って、
「……悪かったから、」
 自ら招いてしまった終焉を噛み締めて、
「もうしないから、」
 きつく目を閉じた。
「……捨てられたくない……」
 ひく、と喉が鳴る。本当は体裁もなくシギを掴みたい手を強く握って、やり過ごす。フユトがどんなに願っても、答えを出すのはシギだ。身勝手なフユトに倦んでしまったら、その手を放す自由はシギにある。
 シギは動かなかった。フユトも動けなかった。静かな時間が刻々と流れて、やがて、シギの大きな嘆息が聞こえた。
「だから、どうすると聞いてるんだ」
 びく、と、目を開けたフユトは身体を強ばらせる。うんざりして苛立つシギの声は、選択を迫る。
「同じことを繰り返すなら次はない、どうする」
 まだ終わりではないけれど、限りなく終わりに近い。フユトには後がない。その手をまだ放さないのなら、呆れ果てたシギがそれでも傍にいてくれるなら、
「……個人的な仕事は、しばらく、受けない」
 こうなってしまった原因を消せばいい。
 ようやく、シギが満足気に吐息する。
「それでいい」
 シギが立ち上がる気配がした。足音もなく、滑らかに近づく気配はフユトのカウントと寸分の狂いもなく目の前に立って、俯いたままの頬に冷たい指で触れる。
「わかったなら、それでいい」
 そろりと宛てがわれる掌が心地いい。
 許しの言葉を待たないまま、フユトはシギの背中に腕を回してしがみついた。左肩に額を載せて、震える呼吸を繰り返す。シギは抱き返してくれない。それが、今のシギの答えなのだと思う。あのシギが冷めてしまうほどのことを、仕出かしたのだ。
「仕事を終わらせる、寝室(へや)にいろ」
 言われて、フユトは首を振る。
「フユト、」
 冷たい声が名前を呼んで、フユトはようやく、しがみつく腕を下ろし、身体を離した。
「待ってろ」
 有無を言わさぬ口調に、頷く他ない。ますます重たくなる足取りでリビングを離れ、寝室に移り、ベッドに倒れ込んだ。
 待っている間はまんじりとしなかった。一分が永遠に感じるほど長く、フユトをその都度、ズタズタに切り裂いていく心地がした。
 シギがようやく寝室へ姿を見せたのは、フユトが何十回も切り裂かれたあとだった。俯せていただけなのに、身体も気持ちも疲労困憊で、表情を繕うこともできない。
「疲れただろ」
 後ろ髪にさらりと指を通しながら、傍らに立つシギが聞く。フユトは素直に頷いて、くすぐったいような心地いいような感覚を甘受しながら、湧き上がる衝動を飲み下すことに専念する。
「今日はもう寝ろ」
 髪を撫でるシギの手が耳に移った。耳朶を優しく揉みほぐし、フユトを眠りに誘なう、いつもの手つきだ。緊張が抜けていくけれど、眠気は来ない。だってまだ、シギはフユトを許していないし、好きだと言わない。
 フユトは傍らに立ったままのシギを見上げて、
「……寝れない」
 微かな声で甘えてみる。
 このまま二度と、シギに会えない気がした。深く眠って目を覚ましたら、フユトだけが取り残されている予感がする。そんな人は最初から居なかったんだと突きつけられて、フユトの夜が再び始まる気がして、バラバラになってしまいそうだった。
「少し出なきゃならなくなった、夜中には戻るから寝てろ」
 それは嘘だ。決めつけるように首を振る。今のシギを困らせても得はしないのに、だ。
「……全く」
 やれやれ、と言いたげな溜息が聞こえて、
「お前を甘やかしてもいいことはないんだがな」
 髪を掻き分けたこめかみに、シギの唇が触れた。
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