路傍の花-1

文字数 2,251文字

 その人は、月のない闇色の夜が似合う。
 いい噂を聞かない学友に誘われて、スラム街にほど近いクラブへ行く道すがら、明かりの乏しい路地を三人で並んで歩いているところに、その人はぬっと現れた。
 突然、脇の路地から出てきた人影にぶつかりそうになってよろける。大丈夫かよ、と笑いながら言ってくる学友たちに苦笑して、すれ違った背中を振り向いた。
 すれ違った瞬間、その人からは、錆を思わせる濃い匂いがしたからだ。
 闇に溶けるような髪と服の色、剥き出しの腕一面に彫られた墨。
 それが、ボクとその人の出逢いだった。
 その日、ぶつかりそうになったボクに舌打ちすることも、詫びることもなく、立ち去って行った背中が瞼に焼き付いて、ボクはそれから、その学友と頻繁にクラブへ行った。そこに行っても会える確証なんかないし、何ならあの出逢いは偶然でしかなかったけれど、気づくと、ボクは背中の幻を探していた。
 暗い夜の一瞬のことだったから、その人の顔なんて見えなかったし、声を聞くこともなかったのに、どうして探してしまうのか、自分でもわからない。強く印象に残った墨色の腕は堅気ではない証なのに、関わってはいけないと直感するのに、もしかすると、自分とは縁遠い危険なニオイに焦がれてしまう、熱病のような好奇心なのかも知れなかった。
 それまでのボクは──少なくとも義務教育(ギムナジウム)を卒業するまでのボクは、学年で真ん中くらいの成績を維持する、可も不可もない、一般的な子どもだった。クラスで目立つこともないし、孤立してしまうこともない、普通の子ども。
 早熟な子が精通したり変声したりする頃、ボクの見た目が女みたいだと揶揄われたことはあるけれど、それだって麻疹のようなもので、度を超えた虐めになることはなかったし、ボクはボクで気に病むこともなかった。
 というのは、ボクが環境に恵まれていたからに過ぎない。
 父さんは大病院で非常勤もする開業医、母さんは元理学療法士で父さんと職場結婚してからは専業主婦。決して富裕層ではないけれど、着るものにも食べるものにも困る暮らしがあると知らなかった程度には、ボクはそれを当たり前に思っていたし、周りの友達も似たような家庭環境だったから、誰かを徹底的に虐めるような子は、クラスにも学校にもいなかった。
 高等教育を受けるために進学した途端、それまでのボクは幻想だったように、環境も成績も、クラスでの立ち位置も変わった。
 いつも明るくて友人が絶えない妹と違って、心許せる友人は自クラスと他クラスに一人二人がいるくらいだし、成績は学年下位をウロウロし、この先の最高教育なんか──成績優秀で真面目な兄さんと同じように父さんと同じ道を往くことなんか、望めない現実を突きつけられた。父さんと母さんはそれが全てではないと言ってくれたし、兄さんや妹と比較されることなんてなかったけれど、きっと彼らの心の中は失望に満たされているんだろうと、ボクは何となく察していた。
 だから、俗に不良と呼ばれるようなクラスメイトに近づいて、小柄な薄い体で精一杯イキがって、スラム街に近いクラブで羽目を外し、葉っぱやハシシを吸っては馬鹿みたいに笑う日常は、ボクの心にストンと落ち込んで、違和感もなく嵌ってしまった。
 初めて、顔面ピアスだらけの若い男にクラブ内で声を掛けられたのは、朝帰りを繰り返すボクに、遂に父さんも母さんも何も言わなくなった頃──三ヶ月が経った冬のことだった。
 電子音楽が鼓膜を満たす空間で、クスリと昂奮にみんなが思い思いに踊り狂ったりキスしたりするような、熱と高揚の空間の片隅で、ボクは若い男の言葉を聞き取れずに頷くだけ頷いて、露出の激しい同い歳の女の子と絡まる学友を置いて、彼に付いて行った。付いて行ってしまったのだ。
 クラブの非常口付近の無人の通路、非常灯が頭上に虚しく灯るだけの仄暗い場所で、ボクは彼の唆しに乗って、自らカラフルな錠剤を唾液に溶かした。途端、全身の毛穴から汗が噴き出すような高揚に呑まれ、指が肌を滑るだけで脳みそをグチャグチャにかき混ぜられる不快感と快感に、ボクは正体をなくす。彼と、彼の仲間だろう数人に揉みくちゃにされるようなアナルセックスをしたらしく、気づいたらお尻と腰と全身の関節が痛み、汗と精液塗れで、冷たい床に転がっていた。
 そういう手段を使う連中の常套なんだろうか。
 女の子と恋愛関係になったことも、まして同性を好きになったこともなく、同年代と比べたら体毛の薄いウブな体を嘲笑い、虚ろに開いた瞳孔と垂れ流される涎を執拗に追うレンズの中で、ボクは彼らにひたすら、気持ちいいと連呼していた。その夜に起きた出来事を克明に記録した動画なんか餌にされるまでもなく、ボクは彼らによって齎された安心感や充足感で初めて、ここに生きていてもいいのかも知れない、と、自分を肯定できた気がしたのだ。
 求められるまま、苦いエクスタシー錠を噛み砕く。極彩色にトリップするボクは、彼らに乳頭を摘まれ、尻を叩かれ、手首と足首を縛られながら恥部を晒して泣き叫ぶ。もっとして欲しい、ボクがここにいることを認めて欲しい。事後の倦怠感や粘膜の痛みなんかじゃ躊躇しない。性的に虐められることで、ボクはボクであることを受け入れる。
 その日も彼らの求めに応じて、クラブ近くの路上で待ち合わせた。かつては声が掛かるまで自分から足を向けようとも思わなかった場所で、ボクは彼らのニヤニヤ笑いに迎えられ、いつもの錠剤を渡される。一息に噛み砕く。世界が回る。
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