アルタイル-3

文字数 2,136文字

 オオワシの得意分野は銃撃戦やゲリラ戦だが、雇い主の意向もあって、近接戦や肉弾戦も、少年の小さな身体に叩き込む。
 成長期を迎えているとはいえ、体付きはまだまだ華奢だ。幼少期の環境のせいか、食に興味や欲がない。どれだけ身体を動かしたあとでも、スープを一皿飲み干しただけで席を立ってしまうような少年だ。少年は食べることや眠ることより、大人が読むような小難しい本を捲ったり、どこか遠くを見つめてぼんやりしたりといった、何の糧にもならないことのほうが好きらしい。
「腹が減らないのか?」
 地下の訓練場で機械的に身体を解す少年に、ふと、オオワシは聞いてみたことがある。昨夜は何も食べなかったと雇い主に聞いたから、このまま激しい運動をしたら倒れてしまうのではないかと、心配になったのだ。
 表情のない少年は、茫洋とした眼差しでオオワシを見上げ、腹が減るとはどういうことだろうかと尋ねるように、微かに首を傾げる。
 この少年はそもそも、自ら発話することが少ない。聞かれたことには答えるのだけども、思ったことや感じたことを訴えるとか、痛みや疲れで機嫌が悪くなるとか、子どもらしい反応が一切ない。それどころか、自分のことを他人のことのように話す口ぶりからして、少年には感覚が乏しいのではないかと、オオワシは直感していた。
「こうして俺と動き回ったあとに食べなかったんじゃ、死んじまうぞ」
 ぼんやりしたままの少年と目線を合わせるようにしゃがみ込み、案じる言葉を掛けてやる。けれど、少年はイマイチ理解できないといった様子で、
「わからない」
 抑揚に乏しく答えた。
 その一言は、戦場上がりのオオワシには衝撃だった。
 わからない、だって?
 医療も食糧も不足する難民キャンプで、石を飲んで死んだ子どもを見た。黴が生え、乾燥し尽くして固くなった一切れのパンを、小指の先ほどの大きさに切り分けて食べる子どもらの腹は、栄養失調によって異様に膨れていた。毎日のように誰かが倒れ、毎時のように人が死ぬ場所でも、子どもらは生きることを諦めてなどいなかったのに。
 感じることも、考えることも、一切をやめてしまうほど、この少年は地獄を見てきた。生きながらにして死んでいる少年が、常に伏せられた眼差しが何を見ているのかと思うと、言葉もない。
「ここに来て食べたものの中で、何が好きなんだ」
 だから、話題を変えてみた。食欲があるないといった抽象的な話ではなく、好きなものや味といった、具体的な中身だ。
 しかし、
「すき、って、なに」
 少年が淡々と聞くから、オオワシの浮かべた笑みはひび割れていく。
「……どれが美味しかったか、とか」
「おいしい、って、なに」
「お前、いったい何を食べて──」
「つめ」
 びく、と、大男の肩が揺れた。
 よく見れば、少年の手の爪はボロボロで、つい最近、血が滲んだ跡もある。
 妙に泣きたい気分だった。目の前の少年は聞かれたことに答えただけなのに、聞いている側がこんなにも虚しくなることなんてあるだろうか。
 けれども、どんな慰めも、立ち尽くす少年には向けられなかった。奇跡なんか起きずに死んでしまっていたほうが、少年にとっては幸福だったのかも知れないと思い、あまりにも無力な自分に腹が立つ。
「……今日はやめよう」
 力無く笑って、オオワシは少年の両肩に手を置いた。子どもなのに冷たい体温が、薄手の服を通して伝わってくる。
 こんなの、何かの間違いだ。子どもたちは皆、愛されるために生まれてくるはずなのに、少年ばかりが何も知らずにいるなんて、不公平だ。
 オオワシの母は小言が多いし躾も厳しかったけれど、そこには母性の原動力がある。オオワシ自身はそれが鬱陶しく感じていたし、反発して家を出て、自ら死線に身を晒すような放蕩息子ではあったものの、何があったとしても母は自分を嫌いにならないという、根拠のない自信があったからこそ──母なりの愛を感じていたからこそ、何だって出来る気がしていたのだ。
 つまり、人が人として生きていくための基盤が、少年にはない。平坦な道も、険しい崖も、越えられないような高い壁も。一本道ではない人生を進むには、誰かに無心に愛された記憶は必要不可欠なのに、少年は傷つけられるだけ傷つけられて、時が過ぎるのを待っているだけの、蝋人形になってしまった。こんな悲劇が、戦時でもない国で、許されていいのだろうか。
「行きたいところがあれば、おじさんが連れてくし、やりたいことがあれば付き合うよ」
 少年は静かに瞬き、オオワシの言葉をゆっくり咀嚼し、顔を伏せた。
 ただでさえ白い肌が、何も食べていないからか青白い。細い首は一捻りで折れてしまいそうだ。骨と皮だけの身体で、こうして立っているだけでもつらいだろうに、少年の瞳は無限の奈落を映すばかりで、少年の表情は精緻な人形のように微動だにせず、諾々と、死の訪れだけを待っている。
 しばらく沈黙した少年が、次に顔を上げたとき、その無表情には微かに動きがあった。たぶん、彼と関わってきた時間があったからこそ、気づけた変化だ。
 少年は仄かに眉尻を下げ、オオワシから視線を逸らし、とても困った──どこか泣きそうな面持ちさえある──ように、
「……わからない」
 もどかしげに答えた。
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