第一話 薄珂と立珂の日常

文字数 2,684文字

 何かに頬をくすぐられて薄珂は目を覚ました。
 視界は一面真っ白だった。これがおびただしい数の羽で、それに埋もれているのだと気付くのに数秒を要した。寝ぼけ眼で目の前で羽に手を伸ばすともふりと指が呑み込まれていく。
 この柔らかさから手を放すのは惜しかったが、窓掛けの隙間から差し込む日の光に瞼を突かれ寝台から降りた。すっかり日は高く昇っていてどうやらもう昼近いようだった。
 窓を開けると気持ちの良い風が頬を撫で、同時に部屋の片隅でかたりと音がした。

「薄珂様。お目覚めですか」
「彩寧(さいねい)さん」

 ここは蛍宮の宮廷で、天藍が与えてくれた薄珂と立珂の部屋だ。
 声を掛けてきたのは天藍が選んでくれた彩寧という壮年の女官で、薄珂と立珂の世話をする侍女を取りまとめている。
 編み込んで結い上げられた黒髪を白い羽根の髪飾りで留めている。だがそれは見るからに手作りで、高級そうな服とは不釣り合いだ。

「立珂の羽根飾り、無理に使わなくていいんだよ」
「とんでもない。私の宝ですから。立珂様はまだお休みですか?」
「うん。昨日もなかなか寝付けなかったんだ」

 薄珂は枕にしていた羽を梳きながら辿ると、その先にはくうくうと穏やかな寝息を立ている弟の立珂がいる。
 よく眠っているが、時折もぐもぐと咀嚼するような動きをした。夢の中で何か食べているのだろう。咀嚼している立珂の頬をぷにぷにと突くと、一瞬むうっと眉を顰めたが、匂いを嗅ぐように鼻をひくひくさせると薄珂の指をぱくりと咥えてきた。

「腸詰……」
「あらまあ。やはりお食事の夢を見てらっしゃるんだわ」
「それは俺の指だぞ、立珂」

 もぐもぐしても食べられない違和感で気付いたのか、立珂はのろのろと瞼を持ち上げた。
 不思議そうにぱちぱちと瞬きをすると、ようやく咥えているのが薄珂の指だと気付いてぽんっと口を放した。

「……腸詰は……?」
「ふふ。この後お昼食でご用意いたしますよ」
「もう昼だ。起きれるか?」
「ん……起きる……」

 立珂はとろんとした目をくしくしと擦りながらのそのそと身を起こした。
 しかしまだ意識は眠っているようで、羽の重みで身体がぐらぐらと揺れている。薄珂は抱きしめるように支えると、赤ん坊をあやすようにぽんぽんと腹を軽く撫でてやった。

「まだ寝るか?」
「ううん。起きる。起きた」
「よし。じゃあ着替えて歩く練習に行くぞ」
「お着替え! 蒲公英色のお袖が長いやつがいい!」

 着替えというと立珂は突如覚醒した。目をらきらと輝かせ、期待に満ちた目で彩寧を見つめている。

「向日葵色のも仕上がってますが蒲公英色でよろしいですか?」
「そうなの!? じゃあ向日葵!」
「最近は黄色がお気に入りだな、立珂は。青は飽きたのか?」
「黄色は顔色が良く見えるんだって。僕って肌まっしろだから黄色にするの」
「白くて綺麗じゃないか」
「僕はいやなの」

 立珂は天藍に服を貰って以来お洒落に目覚め、着替えを楽しむようになっていた。
 侍女があれやこれやと生地を持ってきて立珂用に作ってくれるので日替わりで色々な服を着ている。最近は難しい色の名前も覚え、既に薄珂は追い付けなくなっている。
 そして立珂は新しく仕立てられた向日葵色だという服に着替え、薄珂はお揃いで深緋とかいう色違いの物を着て着替えが完了した。

「今日は中央庭園がいい」
「分かった。おいで」
「ん」

 立珂は薄珂に向けて両手を広げ、薄珂は立珂の背に手を回して抱っこした。
 里を出て羽が軽くなってから三カ月経ったが、やはりまだ車椅子は必要だった。しかし芝生を車椅子で移動すると跡が付いてしまうため抱っこして移動をするのだ。
 侍女が微笑ましそうに見守る中、立珂をゆっくり芝生に降ろす。立珂はぐっぐっと確かめるように足に力を入れると、抱きしめてくれている薄珂の腕から少しだけ身体を放した。

「ゆっくりでいいからな」

 立珂はそろりと右足を前に出した。次は左足、次はまた右足。
 少し前のめりだが一歩ずつゆっくりだが立珂は自分の足で前へ進んで行く。うまい具合に歩き続けたが、少しだけ地面がへこんでいるところに足を取られ、かくりと立珂の膝から力が抜けていしまう。転びそうになるのを薄珂が受け止め、二人でころころと芝生に転がった。芝生は手入れがしっかりとされていて、立珂の羽ほどではないがふかふかなので怪我もしない。
 薄珂と立珂は転がったことすらも楽しくて、きゅっと抱きしめ合ってくすくすと笑った。

「薄珂おひさまのにおいする」
「立珂がいっぱい遊んでくれるからな」

 侍女と一緒にじゃれながら歩行練習と休憩を繰り返し、気付けば一時間が経っていた。
 四阿で休憩している間は侍女が羽に熱が籠らないよう扇いでくれているが、突如立珂の身体がぐらりと揺れ薄珂の膝に倒れ込んだ。

「立珂様! どうなさいました!」
「誰か! 医師を呼びなさい!」
「あ、平気平気。眠いだけだから」

 見ると、立珂は薄珂の膝でくうくうと寝息を立てている。侍女はほうっと安堵のため息を吐いた。

「お昼寝が多いようですが、どこか具合がお悪いのでは?」
「人がたくさんいる生活に慣れてないだけだよ」

 薄珂と立珂は物心ついた時は既に父と三人きり、森で生活していた。獣人の里も十五人ばかりとそこまで多くはない。
 だがここには侍女だけでも数十名、他にも数えきれないほどの人がいる。そのほとんどが薄珂と立珂は関りが無く会話する事も無い。それどころか彼ら同士もほとんど会話をしない。
 全員が支え合い一致団結していた獣人の里とも全く違い、冷たくも感じるその様子に薄珂は気後れした。だが薄珂以上に立珂は慣れないようで気疲れが多いのだ。そして限界を迎えるとこうしてぱたりと眠ってしまう。

「二人にしてもらってもいい?」
「承知致しました。何かあればお呼び下さい」

 侍女たちはぺこりと頭を下げると、傍にいることを粘らずあっさりと離れて行った。
 実は、あまり傍にいすぎないようにして欲しいと薄珂が頼んでだのだ。
 可愛がってくれているのは有難いと思う。だがおそらく立珂は侍女が終始側にいることを息苦しく感じている。動けない頃は薄珂に対してでさえ迷惑を掛けてはいけないと気を使い、じっとしていることが多かった。
 眠ることが多いのはおそらく気を使っているからなのだ。

「大丈夫だぞ。俺しかいないからな」

 辺りから侍女たちが身に纏っていた香のにおいがしなくなると、立珂は穏やかな顔でぷうぷうと寝息を立て始めた。
 不自由がなく襲われる心配の無い生活は有難い。けれど歩けなかった頃のように昼寝が増えていることに薄珂は不安を覚え始めていた。

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