第三話 変えられないもの

文字数 5,930文字

 薄珂は立珂を抱っこしたまま長椅子に腰かけた。
 けれど立珂は何かに気付いたようで、ふいっと薄珂の首に埋めていた顔を上げてきょろきょろとあたりを見渡している。すると次第に顔つきが明るくなり、何故かそわそわとし出した。
 やっぱり、と薄珂は大きく頷き孔雀に向き直った。

「先生さ、里で俺たちの小屋に薫衣草植えてくれたじゃない? あれって立珂の寝付きに関係ある?」
「ありますよ。有翼人は人間よりも香りに敏感らしいのでそういった効能が効きやすいんです」
「やっぱりだ! 立珂が寝れなくなっちゃったんだ! 治せる!?」
「そうでしたか。すみません、もっと気を付けてあげるべきでしたね。こっちにどうぞ」

 孔雀はこれっぽっちも驚かなかった。
 部屋の奥に向かって歩くとその先にある扉を開き、案内してくれた先にあったのは薄珂と立珂が里で初めて知った紫の花畑だった。

「薫衣草だ!」

 立珂はじたばたと暴れ、ぴょんと薄珂の腕から降りて薫衣草に飛びついた。

「ここ孔雀先生の庭?」
「そうですよ。研究用に使って良いと」
「ねえねえ! ごろごろしてもいい!?」
「ええ、いいですよ」
「やったあ!」

 許可を貰うやいないや、立珂はころころと薫衣草の中を転がった。
 これが里で初めて手に入れた特別なにおいだ。
 小屋に住み始めてすぐの頃、孔雀が薫衣草畑を作ってくれた。立珂はとても喜んでよく薫衣草畑で昼寝をした。
 あれには意味があったのだ。
 怪我が治るまでは痛みでそもそも眠れなかったが、痛みも引き余裕が出て来たころに立珂は眠りが浅くなり始めた。そのころに立珂が薬のにおいが嫌いだと言ってぐずったのだ。
 それを見た孔雀が与えてくれたのがたくさんの薫衣草だった。良い香りだから落ち着くでしょうとしか聞いていなかったが、思い返せば立珂がぐっすりと眠るようになったのは薫衣草を傍に置くようになってからだった。

「持って行っていいですよ。枕元に置いて下さい。加密列茶もあげましょう」
「あ! いい香りのお茶だ! これも大好き!」
「有難う。また貰いに来ていい?」
「では定期的に持っていくよう侍女の方に頼んでおきましょうか」

 あ、と薄珂は孔雀の袖を引いてこっそりと耳打ちをした。
 寝付けない原因がにおいだとすると、立珂が嫌がるにおいに心当たりがあった。それはここにきて初めて知ったにおいだ。

「女の人のお香が嫌なんだと思う。布団も香が焚き染められてるし」

 宮廷の女性はお洒落だ。しかし同じ制服に基準に沿った髪型、過度な装飾は認められていない。
 そんな彼女たちが唯一個性を競うのが香りだった。植物由来ではあるようだが、こうなって振り返ると純粋に花の香ではない。特別香るように何かしらの薬品を含めて作られているのかもしれない。
 そして彼女たちは常に立珂の傍にいる。彼女たち自身はとても良くしてくれて、立珂も大好きな人たちでよく懐いている。だからこそ共にいる時間も長いのだ。

「なるほど。しかし布団はともかく、女性にお香を止めろというのは難しいですね。天藍さんに相談してみましょうか」

 天藍の名を聞いて、薄珂はぴくりと指先が震えた。
 しかしそれ以上会話を広げることはせず、するりと孔雀の袖から手を放して黙り込んだ。

「薄珂くん? どうしました?」
「ううん。先生それ聞いといてもらってもいい?」
「構いませんが、直接話した方がよくはないですか? 立珂くんのその時の状態にもよるでしょうし」
「うん。でも俺、天藍に会う方法知らないし」
「え?」
「先生は仕事で会うよね。お願い」
「薄珂くん。待って下さい。それはどういう」

 薄珂は孔雀が伸ばしてきた手をすり抜け、薫衣草と戯れる立珂の傍へ駆け寄った。立珂は早くも眠そうにしていて、ふふふと笑いながらうとうとし始めている。

「おいで、立珂。薫衣草もらったから部屋で寝よう」
「……腰布と羽織……」
「分かってる。替えてやるから寝てていいぞ」
「ん……」

 薄珂は部屋から持って来た袋から布を取り出した。一つは立珂が腰に付けている腰布の替えで、もう一つは今着ている服の上に羽織れる上着だ。
 腰布は左右の釦を外せば付け替えられる便利なものだ。羽織も似たような造りになっていて、肩と袖口の釦で着脱すれば立珂が動かずとも着ることができる。これは侍女が立珂のために作ってくれた服で、立珂のお気に入りだ。

「寝るのに替えるのか?」
「部屋まで距離あるからね。人目に付くのにだらしないのは恥ずかしいんだって。だから隠すんだ」
「それで色々持って来たのか。大変だな、お前も」
「大変じゃない。立珂の世話をするのが俺の幸せなんだ」
「えー。俺弟の面倒なんて見ないぞ」
「何でだよ。兄貴が下の子を守るのは当然だ」
「うちの弟は立珂みたいに可愛くないんだよ」
「弟は可愛いものだ。俺はそういう冗談嫌いだよ」

 薄珂は創樹と慶都とじゃれるように話をしながら、何か言いたげな顔をしている孔雀にお礼だけ言うと逃げるように部屋を出た。
 部屋に戻るといつも通りに侍女が数名で部屋の掃除やら片付けやらをしている。
 今までだったら何も気にしなかったが、気付いてみれば部屋中が何かしらの香りが漂っている。侍女は各自で香りが違うし、寝具に香を焚き染めてくれているので部屋にも染み付いている。これでは生活をすればするほど香りが増え、敏感な立珂はそれが苦痛になっていたのだ。

「薄珂ちゃん」
「おばさん」
「孔雀先生に聞いたわ。私たちのところにいらっしゃい。香は使って無いしお庭に向けて窓が開くし」
「いいの!? 行く!」

 慶都一家は薄珂と立珂と同時に里を出た。
 父親の慶真が宮廷勤めに戻ったこともあり、宮廷に部屋を貰ったのだ。一家で一つの部屋を使っている。

「とりあえず露台に出ましょう。慶都、孔雀先生がお布団を用意してくれてるから貰ってきて」
「分かった! 立珂、待ってろ。大丈夫だからな」
「俺も行く!」

 慶都はきゅっと立珂の指を握り、よしよしと撫でると部屋を飛び出した。
 創樹もそれを追い、薄珂は頼もしい友人たちを見送ると露台の揺り椅子に腰かける。ゆらゆらと揺れると立珂は気持ちよさそうにぷうぷうと眠っている。
 慶都の母は机に薫衣草をどっさりと飾ってくれて、辺りは薫衣草の香りに包まれた。そして何の飾り気も無い端切れ布をぱぱっと縫い合わせて袋状にし薫衣草を詰める。紐を括りつけ立珂の首に掛け、すると立珂は眉を下げにやにやと楽しそうに笑った。

「ははっ。幸せそうだ」
「よかったわ。元々お昼寝多いからそういうものなのかと思ってたの。ごめんなさいね」
「ううん。俺も気付けてなかったし。でもよかった……」

 安心しきった顔で眠る姿に安堵していると、どたばたと足音を立てて慶都と創樹が戻って来た。それぞれ布団と枕を持っている。

「貰ってきた!」
「慶都の隣の部屋に置いてちょうだい。薄珂ちゃんと立珂ちゃんのお部屋にしましょう」
「ほんと!? やったあ! また立珂と一緒に寝れる!」
「学舎行き始めてから会える時間減ったもんな」

 蛍宮に来てから慶都は天藍と慶真の薦めで学舎に通い勉強をし始めていた。
 里ではそういうものが無かったし、何より立珂と離れることを嫌がっていた。しかし父の「立珂くんを守る力を身に付けるため」という一言で異も無く通い始めた。これは立珂も寂しがっていたから前のように一緒に暮らせるのは有難かった。

「薄珂ちゃん、移動できる? 横にしてあげましょう」
「俺も! 俺も一緒にお昼寝する!」
「はいはい。分かったから静かにしなさい。立珂ちゃん起きちゃうでしょ」

 用意してくれた布団に立珂を寝かせると、慶都も一緒に転がりくふふと笑っている。まるでそれに答えるかのように寝ている立珂もくふふと笑った。
 見慣れた光景に安心し、付き合ってくれた創樹に頭を下げた。

「ごめんな、創樹。孔雀先生に用あったんだろ?」
「いや、会ってみたかっただけ。格好良いよなあ、孔雀先生」

 創樹は目をきらきらと輝かせた。先ほども妙に浮かれていたが、その表情はうっとりとしている。

「……もしかして好きなの?」
「当り前だろ! 孔雀先生は獣人の救世主なんだから!」
「救世主?」
「そうだよ! お前見てたんだろ! あの金剛を倒した人なんだぞ!」

 金剛を倒した。それは薄珂たちがここにくるきっかけとなった事件だ。
 父のように思っていた金剛の裏切りに薄珂は愕然とした。そして立珂を守るために戦い、決着をつける決め手となったのが孔雀の一撃だった。
 逮捕の経緯を語ると薄珂と立珂の存在は隠せないが、薄珂が公佗児であることは隠した方が良いだろうとなり、功労者は孔雀であるとしたのだ。協力者に鳥獣人がいることは隠せなかったが、表には慶真が立ち薄珂は弟を守った程度に収めた。

「それだけじゃない! 一生治らないって言われてた怪我も治したんだ! 蛍宮の獣人はみんな孔雀先生が好きなんだ!」
「あ、好きってそういう意味ね」
「凄いよなあ。格好良いよなあ」
「獣人の治療ができる人間なんていないもんね」
「人間は獣人のことも有翼人のことも勉強しないからな。でもやっぱり人間の知識と道具ってのは凄いんだよ」

 孔雀が救世主と讃えられるのは金剛の一件だけではない。それはきっかけに過ぎず、今高い支持を得ている理由は医師としてだ。
 獣人と人間は体内構造が全く違う。人間の姿になりはするが獣人はそもそも獣なのだ。しかも『人間の姿になる』というのがどうやって成されているのか解明されておらず、人間にしてみれば全く理解不能な超常現象だった。
 つまり人間の治療と獣人の治療は全く異なる分野の学問なのだ。ちょっと勉強すればできるようなものではないし、種族間の溝は少なからず存在するのであえて学ぼうとする者などいない。
 けれど獣人より人間の方が医療水準が高く平均寿命も長い。獣人にとって人間の医療というのは憧れだった。
 だから獣人の治療ができ人間の知識と道具を扱える孔雀は極めてまれな存在なのだ。さらには獣人の敵ともいえる金剛を捕まえたとなれば新時代の光明と言ってもいい。それくらい孔雀は今この国で高い支持を受けているのだ。

「獣人保護区に住んで欲しいけど、宮廷に住んでるんじゃ無理だよなあ」
「そうかな。宮廷に住んでる方が変な気がするけど」
「何で? 殿下が連れて来たんだから宮廷にいて当然だ」
「だって獣人と人間を繋ぐって目的で来てるはずだよ。俺てっきり獣人保護区に住むんだと思ってた」
「そうなのか!? なんだよ! 来てくれよ!」
「俺に言われても」
「殿下に聞いてくれよ! 仲良いんだろ!」
「……さあ。会う方法知らないし」

 どんどん高揚する創樹と反対に、薄珂は意気消沈しぷいっとそっぽを向いた。

「全然会ってないのか?」
「最初の頃は毎日顔見せてくれてたけど、このひと月くらいは見てない」

 最後に交わした言葉は『しばらく忙しくなるから会えない』だった。
 聞いた時はああそうと思っただけだったが、三日経っても十日経っても天藍はやって来なかった。寝てる間に来たようなことを侍女から聞いたが、薄珂は顔を合わせていないのだから会っていないのと同じだ。
 なら会いに行こうかと思っても、侍女たちは皇太子殿下に直接会う方法など持ち合わせていなかった。どこの誰に言えば会えるのかすら分からなかったが、ある日孔雀から仕事で三日に一度は顔を合せると聞いた。そんなことすらも薄珂は教えて貰えていなかったのだ。

(……飽きた、のかな。連れて来たのに追い出したら体裁悪いからとりあえず置いてるだけで)

 そんなことをするわけがないと分かってはいる。けれどこうもほったらかされ、立珂の具合まで悪くなるとなると不安はぬぐえなかった。
 薄珂は寂しさを誤魔化すように立珂の頬を撫でると、立珂はさらに薄珂の温もりを求めてぐりぐりと頬を押し付けてくる。愛しさ溢れるその仕草だけで、天藍に会えずぽっかりと空いた心の穴が満たされていくように感じた。

「そういやどっかの偉い人が来ててみんな忙しいらしいって言ってたな」
「一日も会いにこれないほど?」
「そうなんじゃないか? だってさ、ほら、宮廷には殿下を良く思ってない人もいるじゃん」
「なんで? 天藍は悪い奴を退治したんだろ?」
「あー、お前森育ちなんだっけ」

 蛍宮の歴史には明るくないが、ざっくりと説明は受けている。
 何でも先代の蛍宮の支配者は人間だったが、人間ですら虐げ、獣人と有翼人は迫害した。国から逃げ出せばどこまでも追いかけ処罰する。誰も彼もが死ぬために生きていたが、その時に数名の若者を率いて解放軍を設立し討ったのが天藍だという。
 そして討ち取った後はこの国の政治を手掛ける皇太子という座に就いた。そのため種族問わず国民から愛され必要とされている――と薄珂は聞いていた。
 だが創樹は嫌そうな顔をして大きなため息を吐いた。

「殿下は兎だろう? 兎とか猫とか、人間が愛玩動物として飼う獣種は他の獣種から馬鹿にされるんだ」
「ああ、なんか聞いたかも。けど種族は優劣じゃないだろ」
「見ようによってはあるんだよ。例えばさ、肉食獣人は戦争で兵士として利用されて死ぬこともある。でも兎は獣化して黙ってりゃ可愛がられて守られる。楽してのうのうと暮らしやがって! ってね」
「だから天藍も嫌いって? なにそれ。じゃあ出て行けばいいのに」
「出て行った人もいるよ。兎の世話になんてなれるか! って」
「じゃあ天藍に守ってもらってる上で文句言ってるの? 図々しくない?」
「図々しいよ。でも今の宮廷で働いてる半分以上は殿下の元仲間なんだよ。だから殿下を嫌いな奴はどんどんいなくなるけど、昔偉かった人ほど居座ってるんだってさ」
「ふうん……」

 薄珂は物心ついた時から森で生きていた。有翼人の立珂を狙う種族の国の仕組など知るわけもないし、興味も無かった。だから『忙しいから会えない』の意味など分からない。そもそも天藍がどういう仕事をしてるのかも知らないのだ。

(そっか。天藍も色々あるのか……)

 薄珂の大切なものは立珂だけだ。
 慶都やその家族、創樹、侍女たちだって大切ではあるけれど、薄珂には明確に優先順位がある。立珂が一番大切で、同列に並ぶものなど無い。立珂を守る手段だけを考えて生きている。
 だから不特定多数、それも顔も名前も知らない相手のために生きるなんて薄珂には想像もつかなかった。

(でもそれを知っても意味はない。俺が優先するのは立珂だけなんだから)

 薄珂はぷうぷうと寝息を立てる愛しい弟に頬を寄せた。この幸せそうな笑顔と穏やかな呼吸は間違いなく薄珂の一番大切なものだ。
 この温もり以上に大切なものなど、薄珂にありはしなかった。

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