第十四話 溢れる未来

文字数 3,939文字

 水中のように視界が揺れている。光ある場所で横になっているのは分かったがそれだけだ。ここが何処で何が起きているかは分からないが、鼻をかすめる薬品の匂いには覚えがある。しばらくぼんやりしていると、見えている背景は孔雀の診療所で、患者用の寝台で眠っていたことに気付いた。
 するとふいにぽたりと頬に水滴が落ちて来た。それはとても暖かくて、手も同じ温かさに包まれている。けれどそれに反して不安げな声が耳に入ってきた。
「薄珂! 薄珂!」
「……りっか……?」
 暖かなぬくもりを与えてくれていたのは眠る時いつも腕の中にいる立珂だった。頬を濡らした水滴は立珂の涙だと気付くまで数秒を要したが、それに気付くとようやく何が起きたのかを思い出し飛び起きた。
「立珂! 怪我無いか!? 大丈夫か!」
「大丈夫だよ! 薄珂がぎゅってしてくれたから!」
「よかった、よかった……!」
 見る限りで立珂は無傷で、今度こそ守れたのかと思うと薄珂の眼からも涙がこぼれた。立珂を抱きしめようと腕を動かすと肩に痛みが走った。
「痛っ!」
「動いてはいけません。怪我をしてるんですよ」
「おじさん」
 声を掛けられて、立珂の後ろに慶真がいたことに初めて気が付いた。まるで自分が怪我をしたかのように苦し気な顔をして、熱を測るように薄珂の額に手を当てた。特に異常は感じなかったのか、ほっと安堵のため息を吐いた。
「熱はないですね。あの崖から落ちて怪我がこれだけなんて奇跡ですよ」
「崖?」
 薄珂の記憶では崖の上が最後だ。しかし身体を見れば、脚に獣の爪痕のような切り傷と腕には殴打したような形跡がある。
(おかしい。狼にはやられてない。それに崖から落ちたら立珂だけ無傷なんてありえない)
 記憶の限りで予想されうる怪我とは事態があまりにも違い薄珂は眉をひそめた。立珂を見ると、困ったように眉間へしわを寄せて小さく左右に首を振っている。ぷんっと口を尖らせている様子からは、おそらく慶真の語る内容と事実には相違があるのだろうことは察せられた。
 けれど慶真は薄珂の心境には気付かないようで、優しい微笑みでゆっくりと頭を撫でてくれる。
「天藍さんが痛み止めを探してくれているので待っていて下さい。立珂君は慶都とお昼寝しますか?」
「ううん。ここにいる。薄珂といる」
「分かりました。では食事を持って来るので待っていて下さいね」
 慶真は心配そうにしていたが、薄珂にぺったりくっついている立珂の頭を撫でると静かに部屋を出て行った。天藍と何か話をしているようで、その後足音が遠くなったのを聞き届けると薄珂は立珂に目を移した。
「立珂。何があったんだ?」
「わかんない。薄珂がぎゅってしてくれてたから何も見えなかったの。でも薄珂が人間に戻ったら浜にいたんだ。誰もいなかった」
「崖から落ちたのか?」
「ううん。公佗児のまま誰かが運んでくれたんだと思う。ちょっと持ち上がってぐらぐら揺れてた。足音もしてた」
「みんなは公佗児を見たか?」
「見てないとおもうよ。みんなが来た時は人間になってたから。慶都がいっぱい飛んで見つけてくれたんだよ」
「そっか……」
 やはり何が起きたのかはよく分からなくて薄珂は目を細めた。崖で発見されたのなら分かるが、浜にいたというのは妙な話だ。確実に公佗児の状態で運ばれている以上、誰かが見ているはずだ。けれど慶真にそんな素振りは無い。
(あれは銃だった。きっと俺達を追って来てんだ。けど里の誰かが来て連れて行けなかったんだだきっと)
 けれど里の誰の目にも触れていないとは限らない。どうしたものかと考え込むと、立珂がきゅっと手を握ってくれた。ほんの少しだけ震えていて、うっすらと涙で揺れる大きな瞳はじっと薄珂を見つめている。薄珂が無言になると立珂は不安になるようで、慌ててにこりと笑顔を作った。
「ちょっと怪我が痛いだけだ。でも立珂がほっぺたぐりぐりしてくれたら痛いの飛んでくかも」
「ぐりぐり!」
 はっと立珂は目を大きく開き、寝台に乗り上げるとぺとりと頬をくっつけてくれる。擦るように顔を左右に小さく動かしてくれると、ぷくぷくの柔らかい頬が触れて気持良い。
「立珂のほっぺお饅頭みたいだ」
「ふとったの」
「慶都に比べればまだまだ細い。もっと食べて運動しような」
「腸詰! お野菜!」
 立珂はしきりに頬を動かしてくれていて薄珂はその温もりを堪能した。立珂が笑っていてくれるだけで恐怖も不安も吹き飛んでしまう。考えるのは後にしようと立珂の喜ぶ話を続けていると、こんこんと扉を叩く音がした。
「俺だ。薬を持って来た」
「おくすり! どうぞー!」
 待ってましたとばかりに薄珂の代わりに立珂が返事をした。それを受けて扉が開くと、孔雀の診療所で見たことのある小さな薬瓶を持った天藍がいた。慶真とは違いいつもと変わらない落ち着いた様子だ。
「痛み止めだ。孔雀先生が万が一の時にって置いてった」
「そうなんだ。有難う」
「人数の少ない集落はこれが問題だな。何かあっても助けを呼べない」
「それは蛍宮なら安全ってこと?」
「そう。蛍宮の警備は凄いぞ。国の軍がやってるから素人集団とはわけが違う」
「……それは金剛達の自警団じゃ駄目ってこと?」
「お、正解。なまじ力のある獣人は己の力を過信して戦闘訓練を怠り戦略も学ばない。それじゃあ生存のため殺戮に躊躇せず群れで行動する野生動物には敵わないんだ。狼に襲われてどうだった? 狼はまだ捕まえられてないぞ。巣穴も見つかってない」
 里は安全だと思い始めていた薄珂は思わず息を呑んだ。二カ月前と同じように狙撃され、しかも狙撃手が誰だかも分からない。加えて地震にすら耐えられない柔い地盤で野生の狼が牙を剥く。もはや安全とは程遠い。
(自警団は毎日見回りをしてる。けどそれも無意味だった)
 薄珂はぐっと拳を握りしめ、立珂もしょんぼりと項垂れている。金剛のことも慶都一家のことも頼りにしているし里は皆優しい。彼らがいなければ薄珂も立珂も今頃どうなっていたかわからない。けれど今後のことを考えれば、今のままでいいとはとても言えない。少なくとも、薫衣草畑には二度と行かないだろうし里の外へ出るのも躊躇われる。
 立珂もそう感じているのか、恐る恐る薄珂に頬を寄せた。怪我をしてなければ全力で抱き着いていただろうし、力いっぱい抱き返してやった。そんな当たり前のことも怪我の痛みが邪魔をする。二人で黙り込んでいると、天藍がとんとんと寝台を指先で叩いた。
「蛍宮に移住したらどうだ」
「……え?」
「引っ越すんだよ。生活保護制度があるから身一つでいい」
「せいかつほごってなあに?」
「国が家と生活費くれるんだよ。仕事探しも手伝ってくれるからいずれ自活もできる」
「でも……人間いっぱいいるんだよね……」
「怖いか? けど考えてもみろ。お前達が危険な目に遭うのはいつも少数で人間のいない森にいる時だ。ならその逆を経験して、より安全な方を選ぶのもいいんじゃないのか? それに、こういっちゃ何だが人里で犯罪被害に遭うのは大体人間だ。何でだと思う?」
「え、わ、わかんない」
「奪いたい物を持ってるからだ。金だったり便利な道具だったりな。逆に奪う物を持ってない奴は狙われない。しかも生活保護受給者は国が様子を見てるから犯罪はすぐにばれるんだ。加えて国は有翼人保護に力を入れている。犯罪者が最も関わりたくないのが『生活保護受給有翼人』なんだよ」
「……う?」
 立珂は話の内容が分からないのか、こてんと首を傾げた。しかし薄珂はその言葉にひどく惹かれた。
(危険はないのかな。いや、あったとしても制度で提供される物は変わらない。危険なのはそれを得た人だ。制度の利用方法はちゃんと考えて、後は常に飛んで逃げる用意だけしておけば……)
 信頼できる孔雀や慶真がいくら安全だと言っても鵜呑みにはできない。けれど薄珂と立珂に関与しない第三者が配布している物を受け取るだけなら、それをどうするかは薄珂が判断することだ。そう思うと移住というのは悪くない気がした。
 そしてそれを後押しするかのように、天藍がぷにっと立珂の頬を突いた。
「それに腸詰もいっぱいあるぞ。専門店だってある」
「腸詰せんもん!?」
「お洒落な商品専門の商人を紹介してやる」
「お洒落せんもん!?」
 立珂はきらんと目を光らせて、しゅばっと天藍に飛びつき張り付いた。天藍は腰の鞄からじゃらりと装飾品を取り出し、髪飾りや首飾りを立珂に付けていく。美しい品々に立珂の目も輝きを増していく。
「まずは孔雀先生の買い出しに付いて見に行ったらどうだ。嫌だったら二度と行かなきゃいいさ」
「う、うん。うん! 薄珂!」
「そうだな。見に行くのはいいかも」
「わあい!」
 ついさっきまで落ち込んでいたとは思えない喜びようで、薄珂は笑顔になった。きっと最初に辿り着いたのが里ではなく蛍宮だったら既に楽しい日々を送っていたかもしれない。安全かどうかはまだ分からないが、今回のことと立珂の笑顔は里を離れる選択肢が存在感を増すには十分だった。
(ちゃんと考えよう。立珂にとって一番良い選択をしなきゃ)
 立珂はきゃっきゃと装飾品で遊び、どの服を合わせるかまで語り始めている。すでに棚は立珂の作った物でいっぱいだ。もはや立珂の世界はこの小さな棚には収まらない。
 薄珂の想いはまだ見ぬ蛍宮という国へ向き始め、しかし焦るなとでも言うかのように天藍はぽんぽんと薄珂の頭を軽く叩いた。
「まずは休め。痛みがひどくなればこれを飲め」
「……うん。有難う」
 そして、天藍は他にもいくつかの装飾品を立珂に与えて帰って行った。立珂は床に広げられるだけ服を広げお洒落について語り出し、途切れないその話はいつしか薄珂の寝物語になっていた。
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