第一話 始まりの出会い

文字数 9,216文字

 薄珂は木造の小屋に背を持たれかけ、足を放り出して座っていた。その膝の上では立珂がぷうぷうと寝息を立てて昼寝をしている。血色の良いまるまるとした頬をつんと突くと、立珂は寝ぼけて身体をびくっと揺らした。
「んにゃっ」
「おっ?」
 立珂はにまにましながら何かを求めて宙に手を伸ばし、空気を掴むとそれを口へ持っていき咀嚼する動きをした。
「腸詰ぇ……」
 もっともっとと言うかのように手をうろつかせ、薄珂が指を差し出すと立珂はそれを掴んでぱくりと頬張った。
「もぐぅ……」
「ははっ。それは俺の指だぞ、立珂」
 しばらくもぎゅもぎゅと口を動かしていたが、食べられないからか、立珂は眉をひそめて悲しそうな顔をした。
 表情豊かに過ごす姿はとても愛しくて、薄珂は思わず頬ずりをする。それが分かったのだろうか、立珂はんふふと言葉になっていない喜びの声を漏らした。
 愛らしい寝顔をうっとりと眺めていたその時、どすどすと地響きのような足音が響いてきた。足音のする方を見ると、そこには大量の荷物を括りつけた象と手綱を引く眼鏡をかけた細長い男がいる。
 象は座って荷を下ろして目をつむると、するりと人間の男性へと姿を変えた。象獣人である。
 象獣人の男は浅黒い肌に幾つもの傷があり恐ろし気だ。しかし象獣人のは眼鏡の男から袍を受け取ると、容姿とは真逆でいかにも人が良さそうな顔で笑った。そして薄珂に向けてぶんぶんと手を振ってくる。
「戻ったぞ。変わりはないか」
「おかえり金剛(こんごう)。たった一日じゃ何も変わらないよ」
「体調の話だ。寝てなくていいのか」
「もう二か月だ。治ったよ。孔雀(くじゃく)先生の医術は本当に凄いね」
「まだ無理は駄目ですよ。傷がふさがったばかりなんですから」
「うん。分かってる」
 孔雀はかちゃりと眼鏡の位置を直すと、あやすように薄珂の頭を撫でた。金剛は立珂の寝顔を覗き込み嬉しそうに眺めている。
 穏やかなこの場所は『獣人の隠れ里』。
 崖から飛び降りた薄珂と立珂はこの二人に拾われて一命を取り留めていた。

*

 ――二か月前
 ぷんと薬品のような匂いがして薄珂はゆっくりと瞼を持ち上げた。
 ぼんやりした意識の中で見えてきたのはとても直線的な部屋だった。真っ白で滑らかな壁に艶やかな本棚、硝子張りの大きな戸棚の中には様々な瓶が置いてある。
(なんだここ。森、じゃないな……)
 見たことも無い美しい室内は恐ろしくも感じられて、音を立てないようにそっと身体を起こした。
 しかしその時、ふいに違和感を覚えた。いつも腕の中にいた立珂がいないのだ。
「立珂!?」
 薄珂は慌てて布団を放り投げると、横に丸まっている白い羽の塊があった。それをかき分けると中からぷうぷうと寝息を立てる立珂の姿が現れて、手にはしっかりと小刀を握っている。
 ほっと安堵のため息を吐いて立珂の頬を撫でると、撫でた自分の手に包帯が巻いてあることに気が付いた。よく見れば体も顔も手当がされている。
(誰かに助けられたのか?)
 薄珂は外の様子を確かめたくて窓の傍に行こうとしたが、立ち上がるより早くに扉が開きぎしっと床がきしんだ。
 人の気配を感じ、立珂の手から小刀を取り素早く抜いた。息を潜めて構えていると、ぎいっと扉が開いて何者かが入ってくる。ぎゅっと小刀を握りしめたその時、入ってきた男と目が合った。
「お! 目ぇ覚めたか!」
「よかった。意識ははっきりしてるようですね」
 入って来たのは二人の男だった。一人は巨漢で浅黒い肌で厳つい体つきをしている。鼻がかなり大きいが、反して目は円らだ。
「ここは獣人の隠れ里だ。俺は象獣人の金剛。自警団の団長をやってる」
「象!?」
 金剛は裾をまくって足を出すと、証拠とばかりに足を象のそれに変えた。人間の身体には見合わない分厚い皮膚と、重量も増したのか床はぎしぎしと悲鳴を上げている。
(象といえば数集まれば肉食獣人も屈する陸最強。実在したのか)
 森育ちの薄珂と立珂はあまり知識が豊富ではない。森に迷い込む獣人と交流したことくらいはあるが、象は話でしか聞いたことはなかった。だがその重量は凄まじく、馬車程度なら物ともせず押しつぶすということくらいは知っている。
 圧倒的強者を前に薄珂は震えたが、それを見た金剛はわははと豪快に笑った。
「安心しろ! 何かするつもりなら寝てる間にやってる!」
「俺達を助ける理由が無い」
「子供を助けるのに理由なんていりませんよ。私は医者ですから」
「医者?」
 金剛と一緒にいた男は眼鏡をかけていて知的な印象だったが、気になるのは服装だった。手縫いでは考えられないほど直線的な服は不思議な形状をしていたが、それ以上に自然ではありえない真っ白さが気味悪い。
(こいつも獣人か? 獣化してないとどっちだか分からない)
 じっと男を睨んでいると、手に怪しげな薬瓶を持っているのが目に入った。一体何なのかと凝視すると、そこには人間の文字が書かれていた。
「人間か!」
「孔雀といいます。人間ですが里で診療所を開いてるんです」
「この先生は俺らの味方だぞ。お前たちの手当てしたのもこの人だ」
「命に別状はないようですが、ちょっとはしゃいだ程度ではないですね。何があったんですか?」
「……人間と獣人に襲われた。逃げてきたんだ」
「襲われた? まさか有翼人狩りか?」
「有翼人狩り!?」
 薄珂の心臓は跳ねあがった。自分ならまだしも立珂を狙われているなど思いもせず、いっそう強く抱きしめた。
(しまった! 有翼人を迫害する土地か!)
 人間と獣人、そして有翼人。この三つの種族は土地により関係性が違う。
 基本的には種族ごとに固まる事が多いが、人間と獣人は生活を共にすることも少なくない。だが人とも獣とも付かない有翼人は受け入れられない場合も多いらしく、中には迫害する土地もあるという。
 世間の実態がどんなものかは知らないが、有翼人狩りをするのなら敵だ。薄珂は再び二人を睨み付けた。
「私たちはそんなことしませんよ。君達は兄弟ですか? ご家族は?」
「立珂は弟だ。親は殺――……はぐれた」
「そう、でしたか」
「弟が有翼人てことはお前は人間だよな。その怪我でよく無事だったな」
 金剛はふうんと感心したように頷いたが、薄珂はぴくりと眉間にしわを寄せた。
(公佗児の姿は見てないのか。けど有翼人は獣人からも生まれる。まさか生態系が変わるほど遠い土地に来たのか?)
 薄珂は己の狭い世界の知識を総動員するが、納得いく回答は見つからない。どうするのが正解か分からず立珂を抱きしめるしかなかったが、その時もぞもぞと立珂が身をよじり小さくうめき声を上げた。
「んにゃ……」
「立珂!?」
 立珂はきゅうっと身を丸めていた。額には薄っすらと汗が浮き、腕に巻かれている包帯に血が滲んでいる。顔色は見たことも無いほど青白く、薄珂の全身から血の気が引いた。
「立珂! 立珂!」
「傷が開いたんですね。もう一度手当しましょう。診せて下さい」
「何する気だ!」
 孔雀が戸棚から何が入っているか分からない瓶を取り出し、立珂に手を伸ばして来た。立珂の異変に涙が溢れたが、何をされるか分からない恐怖を受け入れる事もできない。同じくらい孔雀も焦っているようだったが、何か思い付いたように微笑んで金剛に手招きをした
「団長。ちょっと来て下さい」
「ん?」
「ちょっと失礼」
「え――お゛!?」
 一体何を思ったのか、孔雀は拳で金剛の頬を殴った。防御ができなかった金剛はごろりと床に転がり、薄珂も思わずびくりと震えた。
 しかし孔雀はにこにこと穏やかな笑顔を浮かべ、金剛の顎をぐいと引っ張った。金剛の口角には血が滲んでいたが、孔雀は躊躇せず瓶の中の液体をばしゃりとかけた。
「ぶわっ!」
「ほら。何ともないですよ。人体に害はありません」
「先生! もっと方法あるだろ!」
「自傷は怖くないですか? やるなら棚の医療器具をどうぞ。象獣人用があります」
 孔雀は首飾りに紛れさせていた鍵をちらりとみせ、開けますか、と笑顔で問いかけている。
「……いい」
 金剛は口を尖らせながら顔に浴びた液体を拭ったが、驚き固まっている薄珂を見てにかっと笑った。
「手当してもらえ。大事な弟なんだろ?」
 金剛は血の滲む口角を目いっぱい広げ、人の良さそうな笑顔を見せてくれた。力付くで安堵させようとしてくれる二人の姿に、薄珂は少しだけ肩の力が抜けた。
 立珂は唇をかたかたと震わせて包帯はどんどん真っ赤に染まっていく。薄珂が意地を張っていて良い状況ではないのは明らかで、ぐっと唇を噛み孔雀と目を合わせた。
「……立珂は治る?」
「診せてくれれば」
 薄珂はそろりと横にずれ、孔雀に見えるように立珂を抱き上げ膝枕をした。孔雀と金剛はぱあっと笑顔になり、孔雀はいそいそと立珂の手当てを始めた。痛み止めだという薬も自分達が試飲してくれて、それを飲ませると立珂の呼吸も穏やかになった。顔色はまだ青白いが、穏やかに眠っている様子に薄珂はようやくひと心地ついた。

*

 それから孔雀は毎日薬を塗り直し包帯を変え、食事まで作ってくれた。金剛も毎日顔を見せてくれて、里のことや薄珂と立珂の知らない様々な話を聞かせてくれた。一か月もすれば薄珂と立珂も大分元気になり、二か月が経った今ではすっかり打ち解けている。
 孔雀は買い出しをしてきた大量の荷物を下ろし、そっと薄珂の頭を撫でた。
「完治までしっかり休まないと金剛団長の二の舞ですよ」
「お、俺のことはいいだろう」
「よくありません。象獣人専用薬は貴重なんです。団長が来て半年も経たないのに空とはどういうことですか」
 孔雀はぎろりと金剛を睨み付けた。獣人は人間のように見えても実際は獣だ。各種族特有の薬があるらしく、様々な獣人が住んでいる里では揃えるだけで大変だという。
(鳥獣人専用もあるんだろうな。治ったからいいんだけど)
 薄珂は自分の両腕を見ると傷跡が残っている。顔にも小さな傷がいくつかあるが、どれも日が経てば消えるだろうということだった。力を込めて拳を握りしめるが、それでも痛みが走ることはない。
(もう飛べる。父さんが言ってた『いんくぉん』を探しに行きたいけど……)
 くっと軽く唇を噛み膝の上で眠る立珂に目を落とした。
 穏やかな寝顔と健康的な食生活でぷくぷくになった丸い頬は平和そのものだ。この生活を手放すのはあまりにも惜しい。
 どうすべきか決めきれず立珂の髪を撫でたが、ふいにひゅうううっと何かが風を切るような音が聴こえた。はっと薄珂は顔を上げたが、それと同時に何かが胸に激突して来た。
「ぐふっ!」
 薄珂は勢いに負けて倒れると、顔を茶色い羽が撫でた。それがするすると子供の腕に変化していくと、ずしりと胸の上に何かが乗っかったのが分かった。ぎぎぎっと震えながら胸の上を見ると、そこには裸の子供が座っていた。
「おはよう薄珂!」
「……慶都(けいと)。鷹で飛び込むのは止めろって言ったろ」
「あ、ごめーん」
 里の子供である鷹獣人の慶都はきょとんと眼を丸くしてから、にゃははと面白そうに笑った。孔雀はくすくすと笑い、金剛は呆れたようにため息を吐いている。既に日常化したこのやり取りに薄珂も苦笑いで返したが、もぞもぞと立珂がゆっくり身を起こす。
「薄珂ぁ……?」
「あ、ごめんごめん。起こしたな」
「起きた!? 起きたなら遊ぼう!」
「ん~……」
 立珂はぽやぽやとしていて、返事とは言えないほど小さく声を漏らすと再び薄珂の膝に頭を乗せ再び寝てしまった。
 慶都は残念そうに立珂の顔を覗き込んだが、ふいに遠くから慶都を呼ぶ声がした。声のする方を見れば一人の女性がのたのたと走っている。女性はようやく到着すると慶都に頭から袍を着せ、ぎゅむむむっと頬をつねった。
「獣化しちゃ駄目って言ってるでしょ!」
「二本足遅いからやだ」
「おばか! 人間に見つかったら捕まっちゃうのよ!」
 里に来て世界の獣人事情をいくつか知った。まず、鳥獣人は非常に稀有な存在らしい。高度な技術力を持つ人間でさえ自由に飛行することはできず、誰もが憧れる存在だという。
 だが向けられる感情は好意だけではない。鳥獣人の最大の利点は戦争や抗争での奇襲兵器になれることだった。特に力で獣人に劣る人間にとっては鳥獣人を仲間にできるかが勝敗を大きく左右する。そのため、これから育てられる子供は家族を人質に売られることが多々あるらしい。
 けれど幼い慶都にその意味は分からないようで毎日獣化して飛び回っているのだ。
(でも平和呆けするのも分かる。金剛の肉食獣人自警団が常に見回りしてるから侵入者に気付いてくれる。野生動物に襲われることもない)
 薄珂達が住んでいた森と圧倒的な違いがこれだ。木々がひしめく森の中であれば、肉食獣人は人間も野生動物も物ともしない。金剛達が来て安全性は飛躍的に向上し、里の住人は何にも怯えることなく暮らせるようになったという。孔雀が人里へ買い出しに行けるのも金剛が護衛してくれるからだ。
 けれど唯一不満の声を上げるのが慶都だ。親子喧嘩を続けていた慶都はついに母親の手を振り払い身構えた。
「いつも言ってるだろ! 立珂を里に入れてくれたら獣化しない!」
「だからね……」
 母親は大きくため息を吐き、薄珂と視線がぶつかると気まずそうに目を逸らした。
(俺達は里の中に入れて貰えなかった。危険を持ち込む可能性を考えれば当然だ。けど金剛が長老様を説得して小屋を使えるようにしてくれた。充分だ)
 薄珂は後ろにある小屋を見上げた。金剛はぼろい小屋ですまないと謝ってくれたが、天幕生活をしていた薄珂と立珂には豪邸だった。どう使ったら良いのかも分からないほどで、二カ月たった今でも外で過ごすことが多い。
(それに孔雀先生ですら里の外だ。俺らなんて入れるわけがない)
 里の規則というのはまだよく分かっていないが、やはり『獣人が安全に過ごす里』であって誰でも大歓迎ではないようだった。
 それでも薄珂は有難かった。何しろ小屋のすぐ向かいに孔雀の自宅兼診療所があるからいつでもすぐに診て貰える。
 けれどその有難さは慶都には伝わらないようで、ぶうっと頬を膨らませている。
「長老様がお決めになったことなのよ」
「猫獣人の長老には羽の辛さが分かんないんだ! だから仲間外れにするんだ!」
「そういうことじゃないのよ。仕方ないの」
「仕方なくない! 守れるのに守らないなんて殺すのと一緒だ! 人間と同じだ!」
 慶都は噛みつきそうな勢いで母親を罵倒し、その剣幕に母親はびくりと震えて後ずさりした。なおも慶都の怒りは収まらず、ふんっと鼻息を鳴らして母親に背を向けた。
「長老様にこーぎしてくる! 立珂を里に入れてもらう! そんで俺が守るんだ!」
「慶都! 待ちなさい!」
 静止の声も聞かず、慶都は袍を脱ぎ捨て鷹へと姿を変えた。ニ足歩行では追い付けない速度に、薄珂は慌てて金剛を見上げた。
「金剛止めて! 俺達の事はいいから!」
「……すまん!」
 金剛は悔しそうな顔をして慶都を追った。慶都の母親もその後を追ったが、薄珂にはどうする事もできない。
(気持ちは嬉しいけどあんまり騒がないで欲しいんだよな。追い出されたら困る)
 里にとって慶都は守るべき大切な子供だ。だが薄珂と立珂はそうではない。問題の火種となるなら出て行ってくれと言われたら従うしかないのだ。
 薄珂は精神的疲労を隠しきれず溜め息を吐くと、そっと孔雀が頭を撫でてくれた。顔を見合わすとお互い苦笑いをするしかない。
「起こして食事にしましょうか。立珂君ご所望の辛い腸詰も買ってきましたよ」
「腸詰っ!」
「おわっ」
 眠っていたはずの立珂ががばりと起き上がり、きらきらと目を輝かせて孔雀を見た。
 いつも寝起きの一言は薄珂へのおはようだったのに、今では必ずしもそうではない。孔雀も嬉しそうに笑ってくれて、薄珂は立珂を抱いて立ち上がった。

*

 孔雀と共に歩き始めたその時、視界の隅で白い何かが蠢いた。立珂の羽とは質の違う毛玉のような物だ。何とは無しにそれをじっと見ると、咄嗟に孔雀の服を掴んだ。
「先生! あそこ!」
「どうしました?」
 薄珂はほんの少しだが崖になっている下を指差した。薄珂の足元から大人二人分は低い位置にいたのは大きな白い毛玉で、ぴょこぴょこと長い耳が動いている。丸まっているその姿は薄珂もよく知っている動物だった。
「兎だ。凄い大きいけど」
「僕よりちっちゃいよ」
「立珂が赤ちゃんの時よりは大きいぞ」
 立珂は十六歳だが、運動不足のせいか外見は十二、三歳ばかりと小さくて両手で抱っこできるくらいだ。同じように、兎も両手で抱っこするくらいの大きさがあった。毛はふわふわしているが足のあたりだけは真っ赤に染まっていて濡れそぼっている。
「怪我してる」
「あの肉付きと大きさは獣人ですね。崖を落ちたんでしょう」
「里に白兎いたっけ」
「いいえ。人間から逃げてきたのかもしれませんね。自警団を呼んでくるので様子を見てて下さい。降りては駄目ですよ」
「うん」
 孔雀は走って里の方へ向かった。中へ入ることはできないが、金剛が里の出入り口に自衛隊駐屯所を作ってくれている。声を掛ければすぐ来てくれる距離だ。
 とはいえのんびり待っていて良いかは迷うくらいには兎の足場はとても狭い。落ちれば崖を真っ逆さまで、とても人間になることはできなそうだった。刺激しないように遠巻きに見ていたが、その時兎の足元が欠けてがらりと音を立てて落ちて行った。足場が柔いのか、よく見れば兎はゆらゆらと揺れている。
「まずいな。孔雀先生まだかな」
「あ、ねえねえ薄珂。あれは?」
 立珂が指差した先にあったのは、森で果実を採る時に使っている籠だ。そんなに大きくは無いが兎が入るくらいはできるだろう。
「紐付けて降ろすの。入ってもらって引き上げるの」
「あ、凄い。頭良いぞ立珂。そうしよう」
 立珂は自分の羽を結っている紐を解いた。それを籠にしっかりと結び付けてそろそろと降ろす。兎は少し驚いたようだったが、ふんふんと匂いを嗅いでいる。
「入れるか? 引き上げるから入ってくれ」
 兎は薄珂と籠を交互に見つめるが、そうしているうちに足場がまた少し崩れた。兎もこれにはびくりと驚き、怪我をした足を引きずり籠へ入ってくれた。
「よし。じっとしてろよ」
 薄珂は兎の重量で紐がほどけないかを確認するように引っ張って強度を確認すると、ぐぐっと力を入れて引き上げた。そうして数秒引き上げていくと兎入りの籠は無事地上に到着した。
「ふう」
「薄珂すごい!」
「立珂が籠に気付いたからだ。凄いぞ立珂!」
 怪我をしている兎そっちのけで、薄珂はぱちぱちと拍手してくれた立珂を抱きしめ頬ずりをした。すると、遠くから孔雀の声が聴こえてきた。振り向くと自警団の団員を一人連れている。
「薄珂君! 立珂君!」
「孔雀先生!」
「引き上げたんですか」
「うん。足場崩れちゃってさ。見てこれ。この籠立珂が考えたんだよ」
「そうでしたか。それは凄いですね」
 またも兎そっちのけで立珂の快挙を自慢すると、孔雀はくすっと笑い立珂を撫でて褒めてくれた。
 そんな様子を横目に、自警団団員は兎の横に膝を付き声をかけている。
「おい先生。そういうの後にして手当してくれ」
「ああ、そうですね。では診療所の奥に寝かせ――うわっ!」
 自警団員が兎を抱き上げようとした瞬間、兎は大きく目を開け飛び跳ね血が飛び散った。薄珂は咄嗟に立珂の頭を抱え込んだが、兎は目を炎のように揺らしてこちらを睨みつけている。そしてぐぐっと力んだかと思うと、その身体を人間へと変えていく。兎の跳躍力を発揮するであろう逞しい両足にすらりと長い腕。金剛のような巨漢ではないが筋肉の付いた肉体はまるで芸術品のように美しい。
 しかし一番目を引いたのは顔だった。血のように真っ赤な切れ長の瞳とうさぎの毛を思わせる真っ白で柔らかな髪。顔立ちは上品だが凄みがあり、土にまみれて生きる薄珂にはとても眩しく映った。思わず見とれて目を放せずにいたが、兎獣人の男はぎろりと睨み返してきた。 
「何だじろじろ見やがって」
「ご、ごめん。これ使いなよ」
 獣から人間になると、当然だが服を着ていない。薄珂は自分とは違って筋肉のついた肉体を直視できず、立珂を降ろして上衣を脱ぎ差し出した。しかし男はそれを受け取らず、今にも飛び掛かりそうな顔をしている。
「俺を殺すつもりか」
「違う。手当てするんだよ。お医者さんいるからここ」
「私は獣人専門医です。安心してください」
「人間が獣人の味方をするものか。治して売る気だろう」
「そんなことしないよ。孔雀先生は良い先生なんだ」
「信用できるか!」
 男は目をぎらつかせて孔雀を睨み付けている。そうする間にも脚からはどんどん血が流れ、それはまるで二か月前の自分のようだった。思わず自分を救ってくれた金剛を振り返ると、金剛は大きく頷いてくれる。
「孔雀先生を嫌がるのは常だな」
「仕方ありませんよ」
「おい! 安心しろ! この先生には里の獣人全員が世話になってる!」
 金剛は腕だけを象にして見せた。薄珂の時もこれをやって見せてくれが、獣人を安心させるにはこれが一番手っ取り早いそうだ。獣人は獣人同士への仲間意識が強いようで、他種族がいる場では必ず団結する。そこに象獣人がいるとなれば身の安全が保障されたも同然だからだという。
「……象獣人か」
「金剛だ。この里で自警団の団長をやってる」
「象がか……へえ……」
「この里じゃ助け合いが信条だ。手当をさせてくれ」
 象獣人の逸話を証明するかのように、兎獣人の男は急に大人しくなり警戒を解いた。薄珂もふうと一呼吸して、再び上衣を兎獣人の男に差し出した。
「外で全裸はどうかと思うよ」
「……借りる」
 兎獣人の男は大人しく薄珂の上衣を羽織ると血が沁み込んでいく。多くはない手持ちの服が使えなくなったことに今更気付いたが、それを見た慶都がぴょんと飛び上がった。
「わかった!」
「うわっ。何、慶都。いつの間に戻ってたの」
「薄珂! その上衣貸して!」
「え? 血で着れないぞ」
「だからいいんだ! うさぎのにーちゃんには俺の上衣貸してやる!」
「慶都のじゃ小さいって。てか、どうすんの」
 慶都はにんまりと微笑み、兎獣人の男の血が染みついた上衣を持って走り去ってしまった。一体何がどうしたのか誰も分からず、薄珂と孔雀は顔を見合わせた。
「まったく。落ち着きのない奴だ。先生。奥の寝台に寝かせればいいか」
「はい」
 そうして大人達は診療所へ入って行き、ぽつんと残された薄珂は再び立珂を抱き上げた。
「辛い腸詰は夜だな。昼は普通の腸詰だ」
「ふつうのもだいすき!」
 血に怯えていた立珂だったが腸詰の一言で笑顔になった。どたばたしている診療所の様子は気になったが、薄珂は引き寄せられるように頬ずりをしながらその場を後にした。
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