第八話 追い詰められた立珂

文字数 5,680文字

 花畑で遊ぶのが日課になり、立珂がにおいで苦しむことも無くなった。
 すっかり穏やかな日常を取り戻していたが、今日はいつもとは違っていた。朝と昼の間、ゆっくりめに起きた薄珂と立珂の前に少しばかり年上の青年と、三十代前半くらいの女性が立ちはだかっている。

「殿下の秘書官をしております護栄といいます。お見知りおきを」
「宮廷職員の教育係、莉雹で御座います。よろしくお願い致します」

 突如現れた冷ややかな圧の強い二人に、薄珂は思わず立珂を隠すように抱きしめた。
 いつもなら慶都の母がいるのだが、今日に限って用があると言って朝早くから出かけている。慶真は仕事で、慶都も学舎から夕方にならないと帰ってこない。侍女は以前ほどべったりではないので二人きりだ。
 薄珂は警戒して二人を睨みつけると、護栄はいかにもわざとらしくため息を吐いて首を左右に振った。
 
「挨拶をしなさい。名乗られたら名乗りを返す」
「……薄珂。こっちは弟の立珂」
「立珂様。隠れてないでご挨拶は自分でなさいませ」
「駄目だ。あんたは香が強い。立珂は作り物のにおいで具合が悪くなるんだ」
「香は女性の身だしなみの一つ。礼を尽くせる者だという大事な証明でもあるのですよ」
「何言ってんだ。立珂が元気でいることの方が大事だ」
「……よくもまあこんな子供を宮廷に入れたものです」

 莉雹は薄珂と立珂を見るのも嫌だとでも言いたげに頭を抱えた。
 しかしそれは薄珂も同じだ。これは立珂に苦しめと言われているも同然だ。この不愉快な光景が目に入らないよう、薄珂は立珂を腕の中にすっぽりと包み込んだ。

「あなた方には礼儀作法を学んでもらいます」
「礼儀作法ってなに」
「宮廷の規則と振る舞いです。一通り勉強してください」 
「勉強? そういうのは創樹が」
「あの子は単なる遊び相手。今後は莉雹殿が教育係に就きます。莉雹殿の合格が出ない限り殿下には会えないものと思いなさい」
「は?」
「では莉雹殿、よろしくお願いします」
「お任せください」

 護栄は早口に言い切ると、やれやれ、と聴こえるように零して去っていった。
 一体何なのか分からず不愉快さだけが残ったが、口答えする隙は与えないとばかりに莉雹がずずいっと詰め寄って来る。

「では基本的な規則から。殿下をお名前を呼ぶのはお止め下さい」
「名前じゃなきゃ何で呼ぶの」
「殿下、と」
「俺たちはそんな呼び方してない」
「宮廷で過ごす者の規則です。やたらと殿下に近付いてはいけません」
「はあ?」
「御前に立つ時は体の前で両手を組み頭を下げます。さ、やってごらんなさい」
「俺らはそんなのしない」
「では普段どのようになさっていますか。朝のご挨拶は?」
「普通だよ。おはようって」
「立って? 座って? まさか寝転がってではないでしょうね」
「寝転がってるよ。立珂は起きてすぐは立てないんだ」

 これは薄珂と立珂にとって当たり前のことだ。動かすことに慣れていない下半身が目を覚ますには時間がかかる。起きたら少しずつ身体を動かし、それからだ。
 しかし莉雹はまたも頭を抱えてため息を吐いた。

「……あのさあ、天藍のことはともかく俺と立珂のことは関係無いだろ」
「ふとした時に日常が出るのです。そういったところから正してまいります。ご挨拶は向き合ってこのように手を組み」
「だから! 起き抜けは立てないんだ!」
「ではせめて寝台の上で姿勢を整え」
「下半身が動かないんだよ! そんな簡単なことじゃないんだ!」
「膝立ちになるくらいはできるでしょう」

 腕の中でびくりと立珂が震えるのが分かった。
 無理に動かせば痛むこともあり、痺れているときに動こうとすれば転んでしまうこともある。普通なら踏ん張ることができるだろうが立珂はそれができないのだ。
 それでも立珂は周りに迷惑を掛けまいと頑張っている。それを自堕落のように言われ、ついに薄珂は怒りが爆発した。

「じゃあ十六年足縛って岩背負って生活してこい! それでも同じこと言えるなら聞いてやる!」
「ま、まあ! なんて乱暴なことを!」
「あんたは同じくらい乱暴なことを言ってるんだ!」

 立珂が腕の中でびくびくと震えていた。薄珂はぎゅっと強く立珂を抱きしめると、横抱きにして立ち上がる。そのまま莉雹に背を向け部屋の外へと向かった。

「お待ちなさい! 今日は宮廷の規則を」
「そういうのは必要ないって約束だ」
「護栄様からのお達しですよ! ご指示を破ってはなりません!」
「俺たちが専属契約したのは天藍だ! 天藍との約束通りにしてる! 約束破ってるのはそっちだ!」

 薄珂はきいきいと喚く莉雹を捨て、足早に立珂の好きな花畑へと向かった。
 
「慶都が帰ってくるまで花畑で遊ぼう。まだ行ってないとこあったろ」
「うん……」

 いつもなら大喜びで眩しい笑顔を見せてくれるのに、もぞもぞと薄珂の腕に籠っていくばかりだ。
 立珂はぷるぷると震えていて、顔色も悪いように見える。落ち込んでいるだけにしては具合が悪そうに見えて、万が一のことを考え孔雀の元へ行こうと方向転換をしたが、その時とぼとぼと歩いてくる慶都と母の姿があった。二人を取巻く空気は重い。

「どうしたの? 慶都、学舎は?」
「……俺はあの学舎にいちゃいけないからもう来るなって」
「は? おばさん、何があったの?」
「それが私にも何がなんだか。急に呼び出されて、何かと思えばもう来るなの一点張りなのよ」
「……変だね。俺たちも天藍に近付くなって言われたんだ」
「なんですって? 誰に?」
「護栄様って人。礼儀作法を学べって怖い女の人を連れて来た。立珂に無理矢理でも立てっていうんだ」
「まあ! どういうことなの!?」

 全員が怒り困惑していると、慶都の名を呼び慶真がばたばたと走って来た。
 勢いよく慶都を抱き上げると、そのまま薄珂と立珂の顔を見る。慶真も立珂がくたりとしているのを見て、くっ、と悔しそうに唇を噛んだ。

「創樹くんからもう来られないと連絡がありました」
「創樹が!?」
「護栄様が指示したようです。慶都の学舎も、莉雹殿を招集したのも全て護栄様です」
「あの人なんなの? 俺たちは天藍との約束通りにしてるじゃないか」
「そうです。これは護栄様の独断で完全な越権行為」

 いつも穏やかな慶真だが、今日はぎりぎりと眉を吊り上げ怒りで目を揺らしている。

「私から殿下に報告します。気にする必要ありませんよ」
「でも俺らが邪魔なんでしょ」
「違います。仮に護栄様がそう思っても殿下が許しません」
「そうよ。薄珂ちゃんを傷付けたら天藍さんが怒って飛んで来るわ」
「その通りです。さ、お昼を食べてゆっくり休んで下さい」

 慶都の両親に背を撫でられながら部屋に戻ったが、立珂はやはり薄珂の腕の中から出てこなかった。いつもなら立珂を守ると言ってくれる慶都も母親の膝の上で丸まっている。
 誰も一言も発することなく、その日はぼんやりと一日が過ぎていった。

 翌日になっても立珂は元気を取り戻さなかった。
 花畑へ行こうかと言ってもふるふると力なく首を左右に振るばかりで、ならば侍女と服で遊べば気晴らしになるだろうかと立珂を抱いて部屋を出た。服は香の焚いていない収納部屋に移動されていて、着替える時はそこへ行くことになっている。
 行けば侍女の誰かしらがいるだろうと思ったが、そこにいたのは侍女だけではなかった。

「それも、そちらも。全て出しなさい」
「ですがこれは全て立珂様の」
「いいから出しなさい。護栄様のご指示ですよ」
「お前! 何してんだ!」
「まあ、嫌なときにいらしたこと」

 侍女を動かしているのは莉雹だった。立珂のために作られた服は全て衣装棚から引っ張り出され、収納箱に詰め込まれていた。

「な、なにしてるの。それみんなが僕のためにつくってくれたんだよ」
「存じております。まったく。何故そんな勝手を?」
「い、いいえ、殿下がお二人には過ごしやすさを第一にと」
「限度があります。今後このような無駄遣いはなりません」
「無駄じゃない! 立珂が楽しく過ごすために必要なんだ!」
「生地は宮廷の費用で用意されたもの。子供一人が乱用して良い物ではありませんよ」
「莉雹様。それは殿下のお言葉ではないでしょう」
「お黙りなさい。それと侍女には侍女の仕事がございます。個人的な服作りは職掌にございません。わがままはお止め下さいませ」
「そんな。殿下はそんな風には――」

 その場にいた侍女の全員が不満を全面に押し出していた。今にも噛みつきそうな顔をした侍女もいるが、その時きゃあという悲鳴が上がった。
 立珂がずるりと薄珂の腕から抜け落ち、どさりと床に横たわったのだ。

「立珂! どうしたんだ立珂!」
「ん、ん……」
「しかりしろ! すぐ孔雀先生のとこ連れてってやるからな!」
「貧血程度で大袈裟ですよ。今医師を呼ぶのでそこに寝かせて」
「うるさい! 退け!」
「きゃあっ!」

 薄珂は莉雹に体当たりをした。本来なら注意されることだが、侍女は薄珂ではなく莉雹を押さえつけた。
 喚く莉雹の横をすり抜け、薄珂に駆け寄ったのは最も立珂の傍にいた彩寧と美星だ。

「薄珂様は立珂様と医務局へ。薫衣草を置いてございます」
「で、でも先生呼ばないと」
「離宮は研究施設で医療道具が無いのです。私がお呼びするので彩寧様と医務局でお待ちを」
「ご安心ください。立珂様がお身体を崩されて以来、私共は孔雀先生に立珂様の手当を習っております」
「……ん。ありがとう」

 美星はにこりと優しく微笑むとぱたぱたと走って行った。
 もしかしたら自分も罰を受けてしまうかもしれないのに、それでも立珂を選んでくれた愛情が嬉しかった。 

 言われた通り、薄珂は彩寧に連れられ医務局で立珂を寝台に寝かせた。彩寧は迷いなく薫衣草を取り出し立珂の傍に敷き詰めていく。
 慣れた香りに安心したが、腕の中の立珂がやけに熱い。顔を覗き込むと顔中に汗をかき、髪の毛もしっとりと濡れ始めていた。

「ひどい熱だ……」
「すぐに孔雀先生がいらっしゃいます。立珂様、大丈夫ですよ」

 彩寧は布でとんとんと汗を拭うと、扇子でゆっくりと仰いでくれた。薄珂は立珂の手を握り、大丈夫だぞ、と声をかけ続けた。
 そして数分もすると孔雀が顔を青くして駆け込んできた。薄珂に声をかけることも忘れ立珂の頬に手を当てる。

「こんな、これは一体どうしたというんです」
「分からない。急に倒れたんだ」
「汗をかいてますね。彩寧殿、着替えを用意して下さい」
「承知しました。立珂様、お気に入りの向日葵色をお持ちしますからね」

 彩寧は立珂の頬を撫でると大急ぎで服を取りに向かってくれた。
 いつも立珂と遊んでくれていた彩寧は立珂の好みを把握している。そして、どんな時でも立珂はみっともない格好をしていたくないというのも知っている。これなら目が覚めた時に気持ちよくいられるだろう。 

「あなたたちは井戸から水を汲んできてください。水道水ではなく井戸水です」

 孔雀が医務局員に指示を出した。だが医務局員は困ったように顔を見合わせ動こうとしない。

「何をしてるんです。早くしてください」
「そ、それが、護栄様から必要以上に薄珂様と立珂様の世話を焼くなと……」
「何ですって? この子は病人ですよ」
「しかし、その、お二人は宮廷の職員ではないからと……」
「馬鹿なことを! この子たちは殿下の来賓! 護栄様が判断して良いことではありませんよ!」
「ですが……」
「護栄の指示は却下だ。全て孔雀の指示通りにしろ」
「え――」

 ざわっと医務局の空気がどよめいた。
 医務局員を割って入って来たのは天藍だった。その後ろには美星が呼吸を荒くして控えている。おそらく天藍に報告し連れて来てくれたのだろう。

「患者の治療が最優先だ。誰に何を言われても俺の指示だと言え」
「承知致しました!」

 医務局員は安心したように息を吐き、桶を手に持ち走り出した。
 そのうちの一人と目が合うと、にこりと微笑んでくれる。決して彼らも立珂を突き放したかったわけではなかったのだ。

「薄珂ぁ……」
「立珂! どうした、苦しいか」
「……ぎゅってして……」
「よし。こっちおいで」

 弱々しく伸ばされた手をしっかりと握りしめ、立珂の横に寝転がり抱き寄せる。立珂はきゅうっと身体を丸めて薄珂の腕の中に納まった。

「大丈夫だ。天藍が来てくれた。もう大丈夫だ」
「……でもみんな僕が嫌いなんだよね……」
「違う。みんな立珂に優しくできないのを悲しそうにしてた。優しくして良いって分かったら嬉しそうに笑ってくれた。みんな立珂が大好きなんだ」

 よしよしと頭を撫でてやると気持ちよさそうに頬を摺り寄せてきた。汗で濡れた肌はまだ熱い。
 孔雀はいつの間にか運び込まれていた水に布を浸し、そっと立珂の額を拭った。

「少し寝た方が良いです。眠れますか?」
「……寝間着に着替えないと……服くしゃくしゃになっちゃう……」
「ご安心を。お着替えの準備はできておりますよ」
「彩寧さん……もってきてくれたの……?」
「当然です。私共がいる限りいつでも綺麗な立珂様ですからね」
「あら、彩寧様ったら美味しいとこ取り。私も新しく仕立てた服を着ていただきたかったのに」

 ひょいと彩寧の後ろから顔を出したのは美星だ。ぷうっと頬を膨らませ、ぷんぷんと可愛らしく怒っている。

「服……またつくってくれたの……?」
「ええ。実は父が張り切ってしまって。お気に召したか報告しろー! ってうるさいのなんの」
「……えへへ……」
「早く元気になってまた遊んでやって下さいませね」
「うん……あそぶ、あそぶよ……」

 ふふふ、とようやく立珂はふにゃふにゃと幸せそうに微笑み、しばらくするとくうくうと心地よい寝息を立て始めた。
 薄珂の腕の中で眠る姿に全員が胸を撫でおろした。
 そしてそれは天藍も同じだった。

「薄珂」
「近付かないで」

 薄珂は振り返らなかった。天藍に背を向けたまま、しっかりと立珂を抱きしめた。

「……すまない」
「聞きたくない。出て行って」

 天藍のせいなのか、護栄のせいなのか、莉雹のせいなのか。
 薄珂には誰が悪いとも言い切れず、ただただ宮廷の全てが憎かった。


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