第十一話 逃げの一手

文字数 2,323文字

「おお、今日は顔色良いじゃないか」
「うんっ。薄珂がぎゅってしてくれてるからね」

 立珂が倒れてから十日ほど経ったが、芳明は毎日立珂の様子を見に来てくれていた。
 最初の頃よりは穏やかに過ごしているが、まだ薄珂が抱きしめていないと気持ちが落ち込み、ほんのわずか傍を離れただけで体調を崩すこともある。
 回復が遅いのは慶都がいないせいもあった。学舎の件が収着していないようで、両親揃っていないことが多い。立珂にとって一番の友達で、薄珂の次に立珂を大切にしてくれる慶都がいないのは心細かった。
 創樹は顔を見せてくれるものの、常時好きなようにではなく決められた時間だけになっていた。
 これには理由がある。孔雀から聞いた話だが、宮廷内の職員は護栄に賛同する者も多いらしい。その意見を無視することはできないため、妥協点を探している最中らしい。その中で最も妥協しやすいのが創樹の行動を制限することだったのだ。
 他にも色々話を聞かされたが、薄珂には難しい政治の話はこれっぽっちも分からなかった。分かったのは宮廷にとって自分たちは扱いに困る存在で、天藍は立珂を守れる状況に無いということだけだった。
 しかし今の立珂はそんなことを気にする気力も体力もない。うとうとしていることの方が多いのだ。
 だがもし回復して心にゆとりができたらきっとこの問題に心を痛めるだろう。そうなった時また倒れてしまうかもしれないと思うと、薄珂はどうすれば良いのか分からなかった。

「まだちょっとくすんでるね。お前さんの嫌なことはなんだい?」
「んー……人がいっぱいいるのはちょっと嫌。あと水のにおいも。だからお風呂も水浴びもいや」
「嫌なものが分かってるなら大したもんだ。それから逃げればいいんだよ」
「でもお水はどうしようもないよ」
「井戸水があるよ。土を通った川もある。ちょいと不便だろうが有翼人は皆そうしてる」
「けど僕だけわがまま言っちゃだめだよ」
「いいんだよ。嫌なことに立ち向かうのが美徳なわけじゃない。嫌なら逃げていいんだ」
「いいのかなあ……」
「いいよ。儂は逃げまくりじゃ」

 逃げるという芳明の言葉に立珂は口を尖らせた。その言葉が響いたのは立珂ではなく薄珂だった。

(逃げる……)

 その夜、薄珂は眠らずに慶真を待っていた。
 このところすれ違いが続いて顔を合せることが少なかったが、どうしても聞きたい事があるのだ。慶都に立珂を抱きしめて眠ってもらい、薄珂は二人が寝付くまで傍で頭を撫でていた。
 そしてもうじき明け方がやってくるころになりようやく慶真が帰って来て、薄珂はそっと立珂の傍を離れた。

「おじさん、お帰り」
「薄珂くん。どうしたんです、こんな時間まで」
「どうしても聞きたいことがあって。今すぐ立珂の専属契約を終わりにしたい。どうしたらいい?」
「……ちょうど殿下とその話をしてきたところです」

 座ってください、と慶真が椅子を引いてくれる。しかし薄珂は座らずにじっと慶真を見つめ返した。
 慶真は困ったように苦笑いをし、一枚の書類を取り出した。蛍宮に来た時に交わした専属契約の契約書だ。

「途中解約はしないと締結しているのですぐは無理です。ですがひと月更新の契約なので更新しなければ終了です。次の更新は十二日後ですね」
「長すぎるよ。今すぐここを出たいんだ」
「できません。宮廷を住居とする契約になんです。納品はしなくていいので敷地内で休みましょう」
「……くそ。結ぶんじゃなかったこんな契約」
「薄珂くん……」

 慶真が傷付いたような顔をしているのが見えた。
 専属契約を持ち掛けたのは天藍で背を押してくれたのは慶真だ。慶真が悪いわけではないけれど、悪態を詫びることも取り繕うこともできず薄珂は立珂を抱きしめに戻った。

 それから数日、やはり慶都一家とはすれ違いが続いた。
 けれど慶真は以前よりも頻繁に顔を見せるようになり、次第に慶都も立珂の傍にいてくれる時間が増えていた。立珂の具合が良い時は露台で食事をすることもできるようになっていた。
 おかげで立珂は楽しそうにしている時間が増えたが、それでも羽はくすんだままだった。なかなか回復しない様子に芳明も首を傾げ始めていた。

「寝てるね。んん、ちょいと顔色が悪いかな」
「熱があるんだ。昨日は元気だったんだけど」
「波があるんだね。変わったことがあったのかい?」
「侍女のみんなが来てくれたけど、それが疲れたのかも」
「ふうむ。この子はどうも気遣い屋さんだね」
「寝たまま話さなきゃいけないのが嫌なんだと思う。みっともないのが嫌いなんだ、立珂は」
「ふむふむ。そうしたら徹底的に離れて生活した方が良いかもねえ」

 けれど宮廷から出てはいけないという契約だ。契約が切れない以上ここにいるしかないのだ。
 薄珂は苛立ちを隠しきれず拳を震わせた。しかしその時、慶真がなだめるように拳を撫でてくる。

「芳明先生。立珂くんを離宮へ移すのはどうでしょう」
「ほ。ていうと孔雀先生のとこかい?」
「いいえ。宮廷の敷地内ですが、かなり離れた林の中に離宮があります。水道も通っていないし草木も花も手入れされていないので宮廷人は嫌っていて近付きません」
「おお、それはいい。この子は自然の中で育ったし、手入れされていない方が良いだろう」
「よかった。ではすぐに移動しましょう」
「すぐ行って平気なの? なんか、手続きとか掃除とか」
「殿下のご指示で手続きは済ませてあります。掃除も侍女が昨日のうちに終わらせてるので大丈夫ですよ」
「……そっか」

 天藍か、と心の中で毒づいた。
 薄珂とて素直に感謝すべきところだと分かっている。けれど今の薄珂には、全て天藍の手の内にあり逃げることはできないのだと思い知らされ悔しいだけだった。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み