102、ヤズィード1世(12)

文字数 1,170文字

ヤズィード1世についての続きです。作品集は下の画像から入ってください。
ヤズィードは683年11月11日にお気に入りの住居があったシリア中央部の砂漠の町であるフッワリーンで死去し、その地に埋葬された。アブー・マアシャル・アル=マダニー(778年没)やワーキディー(822年没)のように初期の年代記作者はヤズィードの死の詳細について何も述べていない。この情報の欠如は、落馬、過度の飲酒、胸膜炎、さらに熱傷を含むいくつかの死因を詳述している反ウマイヤ朝の傾向を持つ作家による創作話に着想を与えたとみられている。当時ホラーサーンに住んでいた同時代の詩人であるイブン・アラーダの詩によれば、ヤズィードは体の脇にワインカップを持ったままベッドで死んだ。
結局死因については年代記作者は何も残していないのですね。
ヤズィードの死後、イブン・アッ=ズバイルは自身をカリフであると宣言し、これを支持したエジプトとイラクがイブン・アッ=ズバイルの支配下に入った。シリアではヤズィードによって後継者に指名されていた息子のムアーウィヤ2世がカリフとなったものの、シリアの殆どの地域がイブン・アッ=ズバイルの同盟者による支配下に入ったため、ムアーウィヤ2世の支配地はシリアの一部に限定された。ムアーウィヤ2世は原因不明の病気によって即位から数か月後に死去したが、いくつかの初期の史料では死去する前に退位していたと述べている。
不幸が続いていますね。
ムアーウィヤ2世の死後、ヤズィードの母親の出身部族であるカルブ族の人々は、自らの特権を維持するためにヤズィードの息子のハーリド・ブン・ヤズィードを擁立しようとした。しかし、ハーリドはウマイヤ朝を支持する部族連合の中でカルブ族以外の部族からはカリフとなるにはあまりにも若すぎると見なされたため、ムアーウィヤ(1世)の再従兄弟にあたるマルワーン・ブン・アル=ハカムが684年6月にウマイヤ朝支持派の部族によるシューラーでカリフとして認められた。
以後マルワーンの子孫がカリフとなっていきます。
その直後にマルワーンとカルブ族はマルジュ・ラーヒトの戦いでダッハーク・ブン・カイスに率いられたシリアのイブン・アッ=ズバイル支持派の軍隊に大勝を収めた。ウマイヤ朝支持派によるシューラーではハーリドがマルワーンの後継者となることを定めていたにもかかわらず、マルワーンは息子のアブドゥルマリクを自分の後継者に指名した。これによってウマイヤ朝の王家はスフヤーン家(ムアーウィヤ1世の父親であるアブー・スフヤーンの子孫の家系)からマルワーン家に取って代わられた。アブドゥルマリクは692年までにイブン・アッ=ズバイルを打ち倒し、イスラーム国家全域におけるウマイヤ朝の権威を回復させた。
次回からマルワーン・ブン・アル=ハカムについて調べていきます。
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