113、アブドゥルマリク(5)

文字数 1,006文字

アブドゥルマリクについての続きです。作品集は下の画像から入って下さい。
683年から684年にかけてヤズィード1世とその息子で後継者のムアーウィヤ2世が相次いで死去したことでダマスクスでは指導力の空白が生じ、その結果としてイスラーム国家全域におけるウマイヤ朝の権威が崩壊した。ほとんどの地域はメッカを本拠地にウマイヤ朝に対抗してカリフを称したアブドゥッラー・ブン・アッ=ズバイル(以下、イブン・アッ=ズバイル)に忠誠を誓った。その一方でシリアの一部ではウマイヤ朝の宮廷と軍隊において特権的な地位を保持していた古くから存在するアラブ部族、中でもとりわけカルブ族がウマイヤ朝の支配を維持するために奔走した。
部族の力も大きかったのですね。
アブドゥルマリクを含む父親のマルワーンの一家はシリアへ移住していたが、マルワーンはそこでイラクの総督の地位を追われたばかりであったウマイヤ朝の強力な支持者であるウバイドゥッラー・ブン・ズィヤード(以下、イブン・ズィヤード)と会った。イブン・ズィヤードはマルワーンを説得し、カルブ族の族長であるイブン・バフダルが主催するジャービヤで開催されたウマイヤ朝支持派の部族会議でカリフの地位へ志願するように促した。
アブドゥルマリクの父マルワーンは複雑な状況の中でカリフに選出されたようです。
最終的に部族の指導者たちはこの会議においてマルワーンをカリフに選出し、マルワーンはカルブ族とその同盟者に支援を仰ぐようになった。これらのカルブ族をはじめとする各部族は、建前としては南アラビア(ヤマニ)を共通の起源としていたことから「ヤマン」の総称で知られるようになった。このヤマン族の権力は、ヤマン族と同様の部族連合であり、ムアーウィヤ1世の下でシリア北部とジャズィーラ(メソポタミア北部)を支配していたものの、イブン・アッ=ズバイルへ離反したカイス族を排除することによって成り立っていた。そのカイス族は684年に起こったマルジュ・ラーヒトの戦いでマルワーンとその支持勢力であるヤマン族に完全な敗北を喫し、その結果として二つの部族連合間の対立と長期にわたる血の確執を引き起こすことになった。9世紀の詩人であるアブー・タンマーム(845年没)が編纂した詩選集に収められた戦闘当時のいくつかの詩によれば、アブドゥルマリクは宗教上の理由からこの戦いには参加しなかった。
部族連合間の複雑な争いがあったようです。
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