111、アブドゥルマリク(3)

文字数 1,024文字

アブドゥルマリクについての続きです。作品集は下の画像から入ってください。
アブドゥルマリクは644年の7月か8月、または647年の6月か7月にヒジャーズ(アラビア半島西部)のマディーナに建っていた父親のマルワーン・ブン・アル=ハカムの家で生まれた。母親はムアーウィヤ・ブン・アル=ムギーラの娘のアーイシャである。両親はクライシュ族の中でも最も強力で裕福な氏族の一つであるウマイヤ家に属していた。
どの氏族に属しているかが重要になってくるわけですね。
イスラームの預言者ムハンマドはクライシュ族の一員であったが、クライシュ族内部からは強力な反発を受けていた。しかし、クライシュ族は630年にイスラームを受け入れ、程なくしてイスラーム教徒の政治を支配するようになった。
クライシュ族が最初はムハンマドに反発していたというのは意外です。
アブドゥルマリクはイスラーム教徒として生まれ育った世代としては最初の世代に属し、当時のイスラーム国家の政治的中心地であったマディーナで教育を受けた。伝統的なイスラーム教徒による史料では、一般的に敬虔で厳格な人物であったと伝えられている。また、イスラームに深い関心を抱き、恐らくクルアーンを暗記していた。
アブドゥルマリクは最初からイスラーム教徒として生まれ育ち、イスラームに深い関心を抱いていたのですね。
アブドゥルマリクの父親であるマルワーンはウマイヤ家内の親戚にあたる第3代正統カリフのウスマーン(在位644年ー656年)の高位の側近であった。また、アブドゥルマリクは656年にウスマーンがマディーナで暗殺される事件を目撃した。歴史家のアブドゥルアメール・ディクソンによれば、この事件はアブドゥルマリクに永続的な影響を与え、マディーナの住民に対する「不信感」を抱く原因となった。
暗殺事件を目撃してしまえば、そのショックは大きいと思います。
その6年後にはマディーナの住民で構成された海軍部隊の指揮官としてビザンツ帝国(東ローマ帝国)との戦いに臨み、戦いにおいて名声を得た。アブドゥルマリクは従伯父にあたるウマイヤ朝の創始者のムアーウィヤ1世(在位661年ー680年)からこの任務を与えられていた。その後はマディーナに戻り、マディーナの総督となった父親の下でディーワーン(官僚機構)のカーティブ(書記官)として活動した。
マディーナの住民に不信感を抱きながらも戦いで名声を得たのであれば、指揮官としてはかなり優秀だったということか。
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